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今日の記録︰社会の役に立ちたい
今年2月に休職して約7ヶ月。時々落ち込みながらも、この数ヶ月間は基本的には穏やかな日々を過ごしている。
最近初心者向けの手芸キットで刺繍を完成させた。
集中してちくちく刺していき、徐々にできていく様が目で見て分かる。ちょっとずつ新しいステッチが刺せるようになる。なんとなく、最初の頃より上達した気がする。3日間ぐらいで夢中になって取り組めた。
完成させた時の達成感たるや。
「復職できるかも〜!」
となぜかみなぎるやる気。
次は積読ならぬ積キットになっていたかぎ針編みモチーフのキットをはじめた。
レース編みキットよりサクサク編めてこれも良い感じ。
サクサク。サクサク。あみあみあみ。
日中誰もいない家の中でひとり編んでいて、ふと心に浮かんだこと。
「私、家にいて編み物して、楽しいけど、何も社会の役に立ってないなぁ」
復職について意欲がわいた矢先だった。
家にひきこもって編み物やってる意味ってなんだろう、と。
なんだか悲しくなってしまった。
思うに、以前から「役に立つ」ということに執着があった。「役に立つ」ことは私にとってとても大事なことだった。
仕事でもそうだ。
有能だと、できるやつだと認められたかった。そうあらねばならないと思っていた。
そうでなければ、私の居場所はどこにあるのだろうか?
………
過去のことを思い出していた。
祖父母のこと。
亡くなった祖父は、教員として教育や地域社会の発展のために長年尽くしており、多くの人に慕われていた。
祖母は専業主婦だったが、地域の婦人会の中心人物として社会的な活動をしていた。祖母の周りはいつも賑やかだった。
共働きの両親に代わり、赤ん坊の頃から祖父母に面倒を見てもらっていた。二人のことが大好きだったし、誇りだった。
だから、二人に褒めてもらえると嬉しかった。喜んでもらえると嬉しかった。勉強も頑張った。
できなくても、二人の愛情は変わらなかったと思うけど。二人に認めてもらうことで自分の居場所を作っていたのかもしれない。
二人の、特に祖父の、教員退職後も社会貢献する姿を見てきた。きっとその姿が幼い私の意識に与えた影響は絶大で、その生き方に憧れ、私も社会の役に立つんだという意識が刷り込まれたんだろう。
(あとは教員、公務員が多い家系、出身高校の校歌や教育目標などの影響もあるだろう)
たぶん、これが「役に立ちたい」「認められたい」の原点。
………
「社会の役に立ちたい」
それだけだと、おそらく良い方向に作用するんだと思う。
それが「役に立たねばならない」と変化してしまうと厄介だ。
休職直前は、おそらく後者になっていた。仕事で役に立てない私に無力感を感じ、価値がないと思った。そして家事育児などその他の要因も相まってうつ状態となった。
今は社会の役に立っていない。
でも、だからこそ仕事を通して自分の能力を活かして社会の役に立ちたいと思う私に気づくことができた。
それは大きな収穫だ。今後の人生における原動力になり得る。
ここでふと、考えた。
役に立つか立たないかで判断することは非常に危ない考え方だ。
本来は存在していることが奇跡で、生きているだけで素晴らしいことなんだ。私は他人に対して同様のことは求めてはいない。
これは私に対する私個人の価値観だ。私は私自身のハードルを高く設定しがちで、いつの間にかそれが自分の首を絞めるていることがある。そこは注意しなければならない。違うと思ったら、その時に見直せば良い。
とりあえず、ゆっくり。ゆっくり。自分を見つめていこう。
………
祖父の命日に思いを寄せて