天皇の召人(宮人)以上女御未満の呼称について①更衣→ 御匣殿へ?
天皇の召人(宮人)以上女御未満の呼称についての変遷 「更衣」が消えた理由
簡単にいうと、中宮や女御は身分が高すぎるためしない、天皇の衣服の管理をする女官が主上と男女関係もつ可能性が高くその総称が更衣、尚侍(後述するけど単なる尚侍ではなく 貞観殿の、とつく可能性大)
女御よりは身分が低いといっても天皇の体に触れるのである程度の身分はある。
天皇の体に触れることもあるので男女関係になりやすい、元々主上自身が、または主上との男女関係狙いの女性(とその父親)がこの地位を狙う、与えるという感じ?
そういえば枕草子で主上が定子様と…の後に道頼様に着替えを手伝わさせていたけど
普段は天皇の着替えとかって男性とか高齢の乳母とかがする感じだったりするのかしら?
主上は定子様のことがあるし、他の后との政治的な関係もあるし御匣殿以外特に若い女性を側におくのを避ける傾向が強かったかも(三条天皇もかな?後一条は彰子らが若い女性を女官すら排除した可能性大、何せ自身らの女房にしてるからね、可哀想な後一条、とたぶん御朱雀?御朱雀には同情しないけど)だから倉本先生の本にもみくしげどのも以外のそういうのが見当たらないとかかれていると。
摂関政治において
中宮や女御、彼女らの父親たちもヤキモキするから配慮するだろうしね。女官は基本主上と男女関係にならないような高齢の女性をおくとか?
もちろん天皇自身にパワーがあれば
后や妃の父親関係なく好きな若い女をそばに置くくらいはできそうではあるけど
段々藤原氏が力をつけて好き勝手できなくなったから…
とすると今でいう政治家が愛人を名目上秘書として側に置いているのと似てる感じというか🤔
我が推し定子様は大例外として、やはり中宮や女御ってビジネスって感じで。恋愛(もどき?)をするなら女官に近い妃という感じがするのよね(個人の感想です)
更衣
>更衣(こうい)とは、本来天皇の衣替えに奉仕する女官の呼称であったが、後に嬪・女御に次ぐ令外の后妃の身位(『弘仁式』中務省式)となった。
>嵯峨天皇より女御より下位のもの
更衣のまま居続ける場合多数だけど寵姫だったりすると更衣→女御の例も…
令外とはWikiより
>現実的な政治課題に対して、既存の律令制・官制にとらわれず、柔軟かつ即応的な対応を行うために置かれた
とのこと、下位の妃として更衣=妃は新設されたと、それ以前は実務であり妃の呼称ではなかったと、更衣の行っていた実務は他の女官することになったと
>更衣(御息所)が実在したのは醍醐天皇、村上天皇の代までで、源氏物語が書かれた時代に更衣は存在しなかったとする説があるが[1]、当時の帝 一条天皇の父・円融天皇には中将御息所、少将更衣と呼ばれる更衣がいたことが『円融院御集』に見える。村上天皇の二人の皇子である冷泉天皇・円融天皇の在位のあと、冷泉天皇の息子・花山天皇、円融天皇の息子・一条天皇の後宮に更衣がいなかった政治的背景としては、一世紀にわたって藤原北家が他氏排斥を目論み、安和の変で源高明の追放を最後に藤原北家が外戚を独占するに至った事実がある。その後、更衣の制度が正式に廃止されたわけではなく、ただ藤原北家摂関家流の公卿の娘が参入しえて女御を号し、それよりも下の出身の貴族が北家の摂関・内覧・一の上を憚って娘の入内を遠慮したため、更衣が補充されなかっただけの話である。
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ここがちょっとモヤモヤするというか、紫式部が源氏物語書いたときにやっぱり更衣いないじゃん的な(円融で最後とか自分で?いってるし)、あと更衣が適当な例として院政期の得子や基子をあげてるけど、超子を挙げるべきだと思うんだよな〜と(超子について後述)
更衣として有名なのが桐壺更衣、源氏物語ではなく、「あさきゆめみし」では入内はしたけど、主上と男女関係にならない可能性あるな〜みたいな感じで桐壺更衣自身がいたのが興味深い。
その状態で主上ではないと思っていた桐壺帝と男女関係になっていた?なっていなくても惹かれあってた感じだから
更衣=女官みたいな感じで桐壺更衣自身はいたのかな?桐壺帝を公卿の一人と思ってた、みたいな?もちろんあさきゆめみしも虚構だけど、主上ではないと思ってた桐壺帝に顔見せていたからな…
あさきゆめみしじゃなく普通の源氏物語の桐壺更衣はやはり普通に下位の妃として入内して、父や母の身分は問題ないけど父がすでにいないから仕方なく下位に、で女御よりも誰よりも寵愛を受けたから虐められたと…
桐壺更衣を側に置きすぎて、桐壺更衣がしなくていい桐壺帝の身の回りの世話をする羽目になったりして、余計軽くみられるようになったとか、だから更衣=女官、女房ではないと。妃なんだと。
あと殿舎を賜るから、清涼殿から離れてるとはいえ妃なんだなぁと
尚侍
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%9A%E4%BE%8D
>10世紀末頃から女御・更衣に準じて後宮に列するようになり、実際の女官としての業務は典侍以下が担ったと思われる。また、藤原威子(後一条天皇中宮)のように、東宮妃・后妃となる前に箔付けのために尚侍となった例もある。
貞観殿の尚侍登子
Wikiの書き方だと尚侍になったのは村上天皇崩御後の円融帝の時期…🤔
村上後宮に入内させ、とはあるけど、どういう后の呼称で入内を…🤔
入内当時は御匣殿別当(後述)だったかもしれないな…
貞観殿(御匣殿)
>別名を御匣殿(みくしげどの)と言い、天皇の装束等を裁縫する場所またはそこに属する女官を意味する。長官は別当。後に天皇の寝室にも奉仕するようになり、御匣殿別当を経て女御、中宮へ進んだ妃もあった。
貞観殿を賜っていたとして知られるのは、
ここで御匣殿のワードが出てくるのが😳
更衣が最初は女官の名称だったのに後に妃の呼称になった経緯とも似ている
>薬子は再び召され尚侍となる。
>始め御匣殿別当として登華殿にあり、後に尚侍(ないしのかみ)となって弘徽殿に移る
ここでも御匣殿のワードがでてくると…
つまりこの三例から(一つはリアリティだした虚構として)
尚侍ってのは人妻or妃の親族姉妹or他の男と関係した身分関係なく「訳あり妃」のいうのが一般名称かな?で訳あり妃の住まう場所が女官の仕事場ってこと?
でも訳あり妃でなくても女御、中宮にすすむための?箔付にもなってる場合もあるか🤔(掌侍もらしいが)
掌侍
>掌侍は尚侍・典侍に従って天皇に近侍し、命婦・女孺らを指揮して内裏内部の儀礼や事務処理を行った。平安時代中期以後、内裏後宮が内侍司を中心に再編され、更に尚侍が后妃、典侍が乳母に対する待遇としての意味合いも持つようになると、掌侍の重要性は高まり、内裏の女官を統率するようになる。
内侍
>通常「内侍」と言えばこの掌侍のことを指す
右近の内侍や貴子様(後述)もこの地位と。
典侍
Wikiは平安後期になると典侍も天皇の寵愛を受けて子を儲けることもあるが妃ではない、さらに時代が進むと側室扱いとなるとあるけど
平安中期までは実務の女官と…
超子
超子は当時の兼家の身分から更衣になる可能性が高かった、しかし中宮が冷泉帝との関係を嫌がり超子が相手をしたため(他の女御もだけど)特別に女御になった
しかも更衣ではなく、御匣殿別当を経て女御となっている様子
つまり女御になる基準が下がった、更衣という呼称が基本不要になった…って感じ?
円融帝時代にいた更衣が記録上最後ということかな?
冷泉帝は更衣をもたず、円融帝は更衣をもって、一条帝は更衣をもたずを御匣殿をもったと🤔
番外編 高階貴子
>円融朝に内侍として宮中に出仕し、漢才を愛でられ殿上の詩宴に招かれるほどであった。おなじ頃、中関白藤原道隆(953年 - 995年)の妻となり…
清少納言も憧れた内侍は本当に貴賤関係なく女性憧れの職業だったかも…
御匣殿(別当)
>御匣殿は、後宮十二司の体制が崩壊した後、10世紀初め頃までに縫殿寮から分離して設立されたもので、内蔵寮で調進する以外の天皇の衣服などの裁縫をする部署。貞観殿の中にあった。 長官の別当は、親しく天皇に接するため高い地位を得るようになり、次第に侍妾の役割を担うようになった。尚侍になる前に任命される例もある。
>後には形骸化して摂関の娘が入内の前段階に任命され、院政期から任命自体されなくなった。御匣殿の実務は命婦があたった。
>また、東宮や后・女院の御匣殿に対しても別当が任じられることがあった。内裏における別当が任じられなくなった後も、后や女院の御匣殿別当は長く続き、鎌倉時代末まで存在した。主人である后や女院の近親者が多く、公卿の娘がなる。
>尊子(道兼娘)は御匣殿別当として長徳4年(998年)一条天皇に入内し、長保2年(1000年)女御となった。入内の頃、父の道兼はすでに没しており、また母の繁子は一条天皇の乳母であったが道兼の正妻ではなかった。
また、藤原道隆の娘のうち、次女・原子は「内御匣殿」[1]と称され、三条天皇の東宮妃となった。四女も「御匣殿」[2]と称され、姉の皇后定子の遺児の母代りとなり一条天皇の寵を受けた。三条天皇の東宮妃・尚侍綏子の異父妹で、道隆の娘であった女性は「宮の御匣殿」[3]と称され、東宮の御匣殿別当となった。
藤原道長の女・藤原威子は、長和元年(1012年)尚侍に補任された後、寛仁元年(1017年)御匣殿別当を兼ねた。同2年(1018年)後一条天皇に入内し、女御、中宮となった。御匣殿別当から中宮となった例である。
藤原道長の孫で、教通の長女・藤原生子は、威子の後に補任され、寛仁2年、わずか数え5歳で御匣殿別当[4]となった。後に26歳で後朱雀天皇に入内し、女御となった。
…Wikiの書き方だと御匣殿別当ですでに入内扱い(妃)みたいな感じだけどうーん💦(特に尊子に)、一般的には妃の前段階という感じなんだろうか🤔、原子様も御匣殿(だった)んだなぁ…
一条朝の尊子や御匣殿(道隆四の君)から御匣殿って憧れの地位だったりするのかしら🤔主上の婚約者的な…
御匣殿=立ち位置的に桐壺更衣のモデルの一人?
(定子様亡き後)、更衣(御匣殿)という低い(妃前段階)にも関わらず他の妃より寵を受け妊娠…という感じか?
御匣殿っていうと紫式部が設定した当時の呼称ではないし、紫式部は醍醐天皇村上天皇の時代に設定したいから更衣という執筆当時には形骸化した妃の呼称を使った?
御匣殿はいつから御匣殿に?
これは後日調べないとわからないけど、御匣殿は枕草子では御匣殿だったっけ?四の君だったっけ?枕草子は定子様崩御後もかかれたということから、御匣殿というのは主上から寵愛され始めたころの呼称の可能性がないかなと。
しかし当時リアルタイムでかかれたわけではない栄花や大鏡では道隆四の君ではなく、御匣殿なんだろうな。
私の仮説では、主上の寵愛があってから、御匣殿となったんじゃないかとも…どうなんだろう🤔
Wikiだと妃にも御匣殿がついたらしいので、確かに定子中宮の定子様の御匣殿→定子様崩御後は主上の御匣殿(婚約者?妃の前段階?主上の女官?)となった可能性もあるかも?
栄花の定子様遺児をそだてていたってのもなんだかなぁと(育てるのは敦康親王に4人もついた乳母たちとかだろうし、もちろん媄子様にも脩子様にもそれぞれついているだろう)詮子の媄子内親王引き取りも私は嘘っぱちだと思っているんだよな…
贈女御について
聞いたことないけど、桐壺更衣は贈三位だったから、身分の低い寵姫が贈られるのはそういった位の方の可能性の方が高いのかなぁ🤔
結論(まとめ)
・藤原氏が力をつけてきたため、主上の元に次第に女官以上女御未満の后が基本的に入内しなくなった(これはWikiどおり)
・超子らのように父の位が低くても更衣ではなく女御となる例が増えてきた
・とはいえ諸事情で中宮以外の妃を全て女御とするわけにもいかない
・身分が低いわけではないが人妻だったり、妃の姉妹だったりする場合は尚侍という名称を使った、その場合も殿舎を賜る場合がある様子…準后というやつか?
・身分が低くはないが、妃になる予定だったり、または妃になってからも箔付として女官名称をもらうというけ経る場合がある?更衣はすでに低い身分の妃という意味で身分の高い女御や中宮(予定)には箔付にはならないけど、キャリアウーマンかつ、主上の恋人的な感じで自然と主上と近くなる、近くなれますようにという願いみたいなのもあるのだろうか🤔政略結婚よりは恋愛結婚に形だけでもしたい的な?
・更衣→御匣殿の変遷には登子(貞観殿の尚侍)、超子(更衣を経ずに御匣殿別当→女御へ)の2人の女性の存在の影響がありそう
・御匣殿についてはもう少し色々調べてみたい
②に続く(かも?)