天皇の召人(宮人)以上女御未満の呼称について②御匣殿とは妃候補?(正)(入内予定の)妃が何かあった時の保険?



御匣殿の解釈の変遷

最初の御匣殿別当の例は藤原貴子、醍醐天皇の息子、保明親王の東宮妃だったけれど彼が早逝してしまって、結局「正式な妃」になれなかった、という人ね。同じ東宮妃の似善子は繁田先生の本で「六条御息所のモデル(東宮妃だったけど東宮早逝のために妃にならなかったという意味で)」と紹介されてたけど、この人もか…

あとは超子、尊子も女御(正式な妃)の前段階として御匣殿別当と…しかし前段階なのかね?
「御匣殿別当として入内」あるから妃の前段階ってのも…そこからなんかあやふや、なぁなぁになったのかな(⌒-⌒; )
主上としてはどうせ妃になるなら御匣殿別当の段階でもう手をつけちゃえ的な(尊子はわからないけど、超子はそんな感じ?)


>また、藤原道隆の娘のうち、次女・原子は「内御匣殿」[1]と称され、三条天皇の東宮妃となった。四女も「御匣殿」[2]と称され、姉の皇后定子の遺児の母代りとなり一条天皇の寵を受けた。三条天皇の東宮妃・尚侍綏子の異父妹で、道隆の娘であった女性は「宮の御匣殿」[3]と称され、東宮の御匣殿別当となった。

原子様は東宮妃(いずれ三条天皇が即位した場合はおそらく中宮か女御予定だったと思われる🥲)としての御匣殿別当、道隆様四女は後述、定子様らとは別腹の父は道隆様、母はあの兼家妾から道隆様妾になった女性の娘も東宮妃より一段下のまた、「宮の御匣殿」。原子様と区別をつけるために、原子様は内御匣殿と呼ばれた?
ややこしいな…要は道隆様の子だけで3人も御匣殿がいたと…
宮の御匣殿と道隆様四女はこうなると、それぞれの正妃の定子様や原子様に何かあった時の保険扱いだったのではないかと考察して見たんだけど…
ただ平安初期以降で同じ男性に姉妹が嫁ぐことはあまりなかったようで…いやあるけどあまり褒められた行為ではなかった可能性が…だから花山天皇も亡きヨシ子様の妹のところは通うのは法皇という出家した身分だからというだけでもなかったかと…(そもそも道長らの手により盛られた可能性あるとはいえ、親子丼だの叔母とのふしだらな関係だの酒池肉林してるお方だし😅)
道隆様としてはそれぞれの男性に「ウチの娘、
御匣殿にしとくから手をつけてもいいしどっちでもいいよ〜」っていう感じだったのか?うーんわからん…

藤原威子は、長和元年(1012年)尚侍に補任された後、寛仁元年(1017年)御匣殿別当を兼ねた。同2年(1018年)後一条天皇に入内し、女御、中宮となった。御匣殿別当から中宮となった例である。
藤原道長の孫で、教通の長女・藤原生子は、威子の後に補任され、寛仁2年、わずか数え5歳で御匣殿別当[4]となった。後に26歳で後朱雀天皇に入内し、女御となった。

威子はともかく(入内予定から正式に入内し女御の例)、生子は妃候補で留まり続けた、ということかなぁ…26でようやく入内だもんなぁ…
生子は妃候補というより道隆様をパクった道長なりの保険だったのかなぁ
やはり威子の九つ上の叔母甥婚(予定)に道長も思うことがあって保険としたのかなぁ
あと寛子(道長娘)も敦成親王(後一条)の御匣殿別当…こちらも妃候補、または保険という感じなのかなぁ🤔



御匣殿の出家騒動?

>「権記」に長保三年二月十二日条に故関白四女(御匣殿)出家の記事がある。

つまり定子様崩御後の約2ヶ月後、49日を超えたあたりに御匣殿にとってショッキングなことが起きて突発的に出家(もどき)をした可能性が…
そのショッキングなことって…
そういえば光源氏は正妻葵の上が◯んで49日経って、紫の上を◯イプしたんだよなぁ…
いや主上がそうしたって言ってるわけではないけど、少なくともそーゆー噂はたったかも…それを紫式部が源氏物語に利用したとか(邪推)
わからないよねぇ…とにかく定子様を失ったあの主上が何するかは…まぁ周りも色々と驚いたことだろうに…


栄花への愚痴、何が史実?何が虚構?

Xでも散々言ってるように私は栄花の何もかもを信じない。
あれをさも史実かのようにするのは過去は仕方ないと思ってもでもあまりの引用してる論文の多さにさぁ
あと
文系の、っていうと主語デカかもしれないけど理系の論文には見られないから仕方ない、文系の文学部の論文ってなんであんなにやたらと「先生」の言葉まで参考にするのかね?不思議でならん、儒教の呪い?
だから御匣殿のことも栄花参考にしちゃいけないんだけど、定子様から母代わりになるよう頼まれたってのもどこまで信憑性があるんだか…
となると寵愛や妊娠まで事実か疑うことになるのでしかしそこはまぁ史実だとは思ってるんだ。
これも史料としては採用は?だけど大鏡にもあるし

つまり
寵愛(男女関係)→権記に記載された出家騒動、大鏡、一応栄花、あと枕草子にあえてか?容姿の記載がないところから推察するに史実

妊娠→死亡理由の原因の可能性が高いため史実

死亡(時期)→権記に記載あり明確な史実

定子様から母代わりになるよう頼まれた→栄花のみの記載なら真相不明

妊娠5ヶ月ほどの時の死亡→栄花出典なのかな、ここは保留、まぁ内裏退出は妊娠5ヶ月くらいかららしいのでそこから採用された?

つまり本当に史実は不明な点が多い…
あのデータベースでちゃんと調べないとな、かな…




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