【連載小説】黒い慟哭 第4話「蜘蛛の視点」
お巡りさんどうでしたか?
「特に問題は有りませんでしたよ。見間違いか錯覚ではないんですか?」制服の汚れをはたきながら答えた。
「まぁ、3年前に一度事件があった場所ですからね」
「うそじゃねーんだよ! ほんとなんだよ。2階からカーテンをめくってこっちを見ていたんだよ!」
あの……お巡りさん。冷蔵庫やキッチンの床面にある点検口の中はどうでした?
賢治が早く切り上げたいのか、早口で捲し立てた。
「床下は異常はなかったのですが、冷蔵庫の牛乳瓶でしたっけ? それが、1つしかありませんでした」
「ちょっと待って下さい! 床下は異常がないってどういう事ですか?」悠介の発言に警察官は困っているのか鼻頭を掻いた。
「ですから、言葉のままです。観察ケースに入ったゴキブリはありませんでした」
「って、ことは牛乳瓶も1つ無くなっていることは……やっぱりアイツが持って帰ったんだ?」勝の言葉に悠介と賢治が信じられないといった表情で勝の顔を凝視していた。
「アイツ?」警察官は未だに状況が飲み込めないのか「とにかく! この家には近づかないようにしてくださいね」
そういいながら、警察官に促されて車の元へ向かった。
全てを知っている1匹の蜘蛛。
『よいしょ』玄関の僅かな隙間から中に侵入する。
『今日は来客者が多いな』
まるでこの家が観光スポットであるかのように入れ替わり立ち替わりで次々と人間がこの家に入ってくる。
土間の溝に脚を引っ掛けて器用に登って行く。蜘蛛からしたら、果てしなく長い廊下をひたすら前進する。
『右の廊下も気になるが、とりあえず食い物を調達しなくちゃな!』意気揚々とリビングへ向かう。
『おっ! ラッキードアが開いてやがる』
中扉の段差を壁の窪みを利用して降りていく。
『クンクン、臭うぞ、飯の臭いだ!』
その脚でキッチンに向かう。
『さっきの警察官が開けっ放しにしてやがる』点検口の蓋が半分ほどズレている。
幸運が幸運を呼びこの蜘蛛はラッキーボーイだ! 性別は定かではないが、運がいいとしかいいようがなかった。
そのまま開口部へ身を寄せていく。
『無い! 無いぞ!』たしかケースに入っていた俺の飯がない! 辺りを見回す。
奥に方に埃にまみれた脚と羽らしきパーツの残骸を発見した。すかさず詰め寄る。
今はこれで、飢えを凌ぐしかない。
蜘蛛は器用に前脚を使って食べ始める。
蜘蛛はどれだけの時間をこの開口部で過ごしたのだろう?
そもそも蜘蛛に時間の感覚などあるのか?
蜘蛛がおもむろにキッチンの方へ移動した
その時、2階から物音がした。
階段の軋む音がした。1階へ降りてきているのか? 蜘蛛は蓋の上からピョンと飛んで地面を蹴った。8本の脚を自在に動かし身を隠した。足音がだんだん大きくなりすぐ傍で止まった。中の様子を伺っているようだ。
ミシ……ミシ……ミシ……
足音がこちらに近づいてくる。
キッチンの方へ人影が歩いてくる。シンクの上のハサミをポケットの中へしまう。冷蔵庫の方へ振り向いた瞬間だった。蜘蛛はしっかりとその顔を見た。黒い服を着た女性だった。
彼女は虚ろな目で暗くて濁りきった視界の中でゆっくりと冷蔵庫の前まで来た。
その時だった。突然玄関が開き、さらに誰かが入ってくる。
『ったく、次は誰だよ』蜘蛛は舌打ちをした。冷蔵庫の下からリビングのドアまで駆け出した。
見上げるとロン毛の兄ちゃんだった。
(たしか、この兄ちゃんめちゃめちゃ怯えていたよな)
(よくも、まぁ、一人でノコノコとあれだけビビっていた兄ちゃんが……)
リビングに入ってきた。蜘蛛が女性の方へ視線を移した。
『──!』女性がいない。
ロン毛の兄ちゃんがやたらと食器棚を入念に確認しているんだが何か探しているのか? 一応警告しといてやるか?
『おーい、兄ちゃん気を付けな、ここには女の人がいるぞ』聞こえていないのか次はしゃがみ込んで開口部を見ている。
『本当だ。観察ケースが2つともない……』
『誰かが持って帰ったに違いない!』
ライトを冷蔵庫に向けた。立ち上がり冷蔵庫に向かう。
『おい! 兄ちゃんこっちはダメだ! こっちに来ちゃーダメだ! おーい聞いているのか?』まるで自分の声が届いていない。
開口部の蓋を跨ぎ冷蔵庫の前で止まったその時、変な違和感を感じた。
人の気配がしたのだ。
まさかと思いスマホのライトを周囲に走らせる。
天井に走らせたライトの明かりが冷蔵庫と食器棚を順番に照らした瞬間だった! 冷蔵庫と食器棚の間に女性が立っていた!
食器棚が死角となり見えなかったのだ。
右手がこちらに伸びてきた。
俺は膝を付いた。自分の体を見ると腹部にハサミが突き刺されていた。
暗闇から女が姿を現す。スマホのライトは俺の左横で天井を照らしていた。
勝が問いかける。「この中のゴキブリをどこへやった?」出血が酷くなってきた腹部を押さえながら聞いた。
見上げるとスマホの光が逆光となり女の顔が見えない。
そのシルエットが口を開く。
「ゴキブリ? 知らないわよ。ゴキブリになんの興味もないわ!」その女の左手には牛乳瓶が握られていた。
薄れゆく意識の中……開口部の闇に落ちていき蓋が閉められた。
最期の記憶に残っているのは、果物の香りだけだった。
23時50分過ぎ……悠介からラインが入った。
【さっき、無事に帰り着いたよ。心配かけてごめん、全て終わったよ。明日会いたい!】
深夜1時30分。女は暗闇の中で赤い柄のハサミに付着した血を拭おうともせずポケットにしまい、冷蔵庫から2つ目の牛乳瓶を手に取りシンクに置き1つ目の牛乳瓶を左脇で抱え肘で冷蔵庫の扉を閉めた。そのまま2つの牛乳瓶を持っていった……
(ほぇ〜、ころしちゃうんだ! 女ってこえーな)
蜘蛛は一部始終を見ている。女が動く。
蜘蛛は気付いていない。自分が女の行動範囲に入っている事を……そう、彼は女の行動に見入っていたのだ、頭上に巨大な影が覆う。
(んっ? なんだ?)女の靴底だった。
プチュッと小さな音を立てて潰れた。
もちろん女はそんな事何の気にも留めていない。むしろ俺を踏んだ事さえ気付いていない。
ピクピクと痙攣する脚がいずれ止まる。その時は1人で死ぬのだろう。
ぼやけた視界に捉えた女の後ろ姿。あれは、黒い服、俺と同じ黒……黒い仲間が3匹、俺の方へやって来る! ありがたいことに、仲間は食器棚の陰に身を潜めて見てくれていたんだ。 仲間は声を張った。
『あの女よくも仲間を絶対に許さね!』
『酷いやられ方だ! おい、大丈夫か?』
『その脚を持ってくれ!』
3匹の蜘蛛はすでに意識の無い仲間を引きずり暗闇の中へ消えていった。
「全て終わった?」スマホの画面を見つめていた友香が一言呟いた。その言葉の意味は明らかだったが、友香の精神は弱っていた。たかだか6日連絡が無かっただけで精神的に鬱が広がりつつある心に悠介の『終わった』その言葉の意味を別の意味に捉えていた。
暗闇の中虚ろな目を向けながら、窓の外を見た。雨が窓を打ち付ける音を聞きながら、まぶたを閉じた……
……ふと、目が覚めた。
外はまだ暗い。朝が来たのか、まだ夜なのかは、分からない。スマホのホームボタンを押した。画面が明るくなり表示された。朝の6時だ。冬なのだ、この時間ならまだ暗いのは当然なのだが、友香は早く闇が明けてくれたらと自ら電気を点けた。このままでは、闇に呑まれて心まで蝕まれる気がした。昨日の憂鬱感は何だったのだろう? 一人取り残された強い孤独感(悠介早く迎えに来て……)三十路をとうに越えている。私には時間がないの、今日、悠介に会って最後まで何もなかったら、ストレートに聞いてみよう。
『ちょっと待ってくれ!』小さい声がした。
「んっ? 誰?」声がしたような気がした。
『早く手当しないと手遅れになっちまう』
『頼む、誰か来てくれ!』
声が聞こえる。一体誰の声? 声のする方へ友香はあるき出した。
玄関を出て真っ直ぐ真っ直ぐ歩く。
雨上がりのアスファルトが異常に冷たく感じ指を曲げながら、一歩一歩前進する。
するとだんだん声が大きくなっていった。なにやら、複数人いるのか、誰かを手当てしているのか? 分からない。
パジャマ姿の裸足で歩く。声をナビ代わりに進み続けた。途中ですれ違った散歩中の老夫婦が怪訝そうにこちらを見ていたが、気にならなかった。
やがて、足は木崎家の家の前で止まり声は一段と声量が大きくなり鼓膜を震わせた。
玄関を開け廊下をズカズカと埃を巻き上げ足跡をつけてリビングに着いた。
『おい! こっちだ!』右の方から声がした。キッチンだ! 友香はゆっくりと進んだ。その先には、冷蔵庫に食器棚とごく普通の家庭にある間取りの配置だが、1つだけ、奇妙な事があった。
床を這っている蜘蛛が4匹いや、3匹だ!
1匹は死んでる。その3匹が見上げているように感じた。
『よかった! 来てくれた!』
『この下に男の死体があるんだ!』賢明に訴えてくる手前の蜘蛛。
友香はしゃがみ蜘蛛の様子を観察した。
軽くうなずく傍から見たらあまりにも滑稽な景色だろう。それもそのはずだ! 誰もいない空き家にパジャマ姿の女性が蜘蛛を眺めているのだ。
でも、彼女にはわかるのだ。
蜘蛛の気持ちが……いや、蟲の気持ちがわかるから蟲の声が聞こえるのだ。
しばらくうなずいていた友香が顔を顰めた。
床に付着した血痕を辿ると点検口で視線が止まった。取っ手を掴んでフタを開けた。
「おい! たしかにこの家に入っていったよな?」髭の男が言った。
「間違いない! 朝からパジャマ姿の女……気味が悪いが、スタイルは良かったぜ」酷く肥えたデブ男が興奮しながら云った。「顔もまぶかったぜ! 早くヨガらせてぇー!」
荒い鼻息を立てながら辺りを窺い誰もいないことを確認してから「よし、いくぞ!」と合図をした。
急かしてくるデブ男が顎をしゃくり髭男がドアノブに手をかけた。
朝の7時この2人は朝まで酒を浴びるほど呑み散らかしたあげく朝帰りの途中に幸運にも友香の姿を捉えらたのだ!
忍び足で廊下を歩く。廊下の軋む音に焦りながら、慎重にリビングに向かう。
髭男が部屋の中を顔だけ覗かせて辺りを窺う。手招きでデブ男を呼ぶ。
キッチンの方へ壁に背を預けて半分顔を出す。そこに先程のパジャマの女が立っていた。
(シメシメ、久しぶりのご馳走だ!)
「──!」
気配を察知したのか友香が慌てて振り返るといきなり抱きつかれ髭男が友香の口を奪おうと必死だった。その必死さが気持ち悪かった、友香は不覚にも闖入者の乱入に気付くのが遅れてしまったのだ!
それには、理由がしっかりあったのだが、それは直にわかることだ。
壊れやすい物を持つように掌を優しく包んでいるから抵抗ができない唯一できるのが、肩を左右に振って嫌がる事だった。男は足元も見ずに開口部を跨ぎ友香の後ろに回り込み口を塞ぎ首筋に舌を這わせながら、左手は乳房を掴んでいる。堪らないといったふうに、耳たぶなめた。抵抗もしないで掌で何かを包んでいるのを見たデブ男が鼻息を荒らげて友香の両手を広げさせた。
「何、大事そうに持ってんだ?」デブ男は眉を寄せて友香の顔を窺った。
すると、小さな影が4つあった。
蜘蛛だった……
「気持ちわりぃーな!」と友香を突き飛ばすとその反動で開口部に脚を取られ髭男共々倒れたが、それでも友香は蜘蛛達を包んだ両手を崩さなかった。
「あぶねーな! おい!」友香の柔肉を受けた。それが、嬉しかったのかニタニタしながら、デブ男に言った。
「すまねぇ」こちらもニヤニヤしながら云った。この2人のやり取りが堪らなく気持ち悪くて底辺にいる底沼の最低な人間に思えてきた。
髭男の体の上で身体をのけぞらせた状態の友香のパジャマがはだけたその隙間から覗く谷間が男達の下心に再点火させた。デブ男が起き上がり眼をギラつかせていた。
「たまらねぇーよな」両手を広げて歩いてきた瞬間だった! 開口部から誰かと目が合った!
「ひぃ!」恐怖に引きつったブタの声が劈いた。股間が急速に萎むのを感じた。
ムクッと起き上がった友香の目がデブ男を見据えていた。
「お前が殺したのか?」デブ男が友香を指しながら言った。
友香が首を横にふる。
「はぁぁぁ? お前以外に誰がいんだよぉー!」
「冗談じゃねーぞ!」デブ男はたるんだお腹を揺らしながら、リビングを後にした。
「なんだ? どうしたんだぁ?」髭男が不完全燃焼だと言わんばかりに上体を起こして状況を理解しようとしたが、どんなバカでもそれを見れば一瞬で理解出来るだろう! 開口部の死体と目が合った髭男の毛が総毛立った!
絶句だった。
友香を跳ね除けデブ男の後を追うようにしてその場を去った。
友香は男性の遺体を見て脳裏に過ぎった。
「全て終わったよ」悠介のあの言葉が引っかかった。友香もあの2人の男共に習って家を後にした。
その頃、ベッドの上に置いてある友香のラインにメッセージが入った。
電車にゆられながら、リュックを大事そうに膝の上で抱えて座る1人の男。
その男は眠そうに目をこすりながら、昨日の出来事を振り返っていた。
昨日は勝の車で帰ってきたのが、23時半だ。大会があると言って悠介より先に送ってもらった。その後、シャワーを浴びて、アツカンを一杯ひっかけながら、深夜まで練習していた。
(大阪までしばらくかかりそうだな)
賢治は頭の中で連続コンボのイメージトレーニングに始めた。
しばらく電車に揺られていたら、前方に黒いコートに黒のスカートに靴まで黒のブーツを履いた黒づくめの女性が乗ってきた。
右手には紙袋を持っていた。
女性は黒髪のロングヘアで真っ直ぐストレートに伸びた髪がきれいだと思ったが、賢治はそれだけを見てスマホに目を落とした。
しばらくすると【次は、新大阪ー新大阪。乗り換えのご案内を致します】
目的の駅に着いたようだった。
リュックを背負いドアの前に立った。
先程の女性も同じ場所に立っている。
たまたま右手に持っていた紙袋の中身なチラッとだけ見えた。
「!」
賢治は唖然とした。
開いた口が塞がらないのだ!
賢治が見た中身は観察ケースのような入れ物に黒い物体が入っているように感じた。
電車が揺れた。左側に体重が寄るのを逆らい右足で踏ん張ったが、女性の肩に自身の左肩が当たってしまった。
「あっ! すいません」賢治の声に反応して女性がこちらを見てきた。
すると賢治の顔がスーッと血の気が引き驚愕の皺を刻んだ。。
──にそっくりだった。凍りついた表情のままドアが開き女性は軽く会釈をして降りていった。賢治も慌ててドアが閉まろうとする隙間を飛び出して降りた。
階段を降りていると30メートル先に女性を発見した。賢治は腕時計を睨んだ。
大会までかなり時間がある。練習にと早く来たが、先程の女性がどうしても気になって仕方がない。
違和感が先行して鳥肌が立っている。
(尾行してみよう)そう、思ったのだ。
(紙袋の中身は見間違いでなければ、あれはまさしくゴキブリだ。しかも、大量の……)
駅からひたすら北に向かって歩いている。
北風が吹き荒れ肌に刺さるほど冷たかった。来るなとまるでこちらに警告をするかのように女性の黒いマフラーが風に煽られている。タクシーを使わないのであれば、徒歩圏内つまり2、3キロの所に家があるのだろう? ポケットに手を突っ込んで考えていた賢治だが、予想は的中した。
大通りから急に脇道に入っていった。
少し間を置いて角から顔を覗かせた。
いきなり女性の顔がアップになり賢治は驚き慌てて身を引いた! 目の前には先程の女性が立ってこちらを見ていた。
「さっきから何なんですか? 警察呼びますよ」女性が眉間に皺を寄せた。
「いや、あのたまたま道が同じでして」賢治は柄にもなく自重気味にペコペコ頭を下げた。
「さすがにここまで一緒だったら、あなたの神経を疑いますよ」女性はため息混じりにそう云って背中を向けた。
「ですよね、すいません」と頭を下げた時、道端にゴキブリの死骸が一匹転がっていた。
(さすがにマズイだろ)
警察官の証言と一致した。
警官は観察ケースなどないと言っていたが、実際には点検口の観察ケースが持ち去られて無くなっているのだ!
(あの女が……)
女性の行方が気になりあとを追いかけると急に道が開けたそこには、寂れた公園の後ろに廃墟のような団地が一棟だけあった。
(何だ? ここは? 一棟だけ?)踊り場から顔を出して女性が階段を上がる姿が見えた。
賢治は混乱していた。
ここに住んでいるのか? とにかく居場所はハッキリとした。探偵になった気分だった。
大会があるのでとりあえずその場を去った。
賢治はどうしても、ある1つの疑問を払拭したかった。
それは、後で考えようとして、足早に大会の会場に向かった。
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