人生に価値などないと言い切る自分と“寅さんの名言“
私個人として、最近、「答えはこれなのではないか」というふうに思うことがある。
この世に、苦しみに耐え抜いてまで生き延びていく必要性や価値などないということ。少なくとも地球上には。
変な話、私のような人間がもしもシマウマだったら、とっくにライオンのメスらへんに捕まって食い殺されているだろうし。
そもそも、人生に大した意味などない。凄く簡単に言うと、運のいい人など限られていて、その人たちだけやりたい事がある程度成し遂げられ、地位や名誉やカネ、影響力と、いかにも本当かのようなおとぎ話を多くの人間に信じさせることができる。
あくまで、おとぎ話。
夢を叶えることなど人生でもなんでもない。最初に述べた通り、生まれた事に大した意味はないのだから。
もっとも子供の頃は、目標なり夢なりがあれば、宝くじを買ったようなもので、その一握りの運のいい人の中に入れるかもしれないが。
実際には叶えられないこと、つまり、“運のいい人の選にもれる“ ことがあたりまえで、そこからリカバリーすることが求められる。
努力した人間が、全員、大谷翔平になったら、
自殺する人などどこにもいなくなるはずだ。
いや、大谷は地球を掌握するレベルの幸運な人物なので、名前を出す事自体ばかげている。
話が飛躍し過ぎたが、紆余曲折、苦労した人が全て報われるなら、自殺する人はいないのではないか。
生物には種を残そうとする本能がある、それだけのことだ。地べたを這いずり回って、泥水を飲んでまで咲かせるべき花などないということ。
おとぎ話を信じていいのは、まだ可能性が未知数である若者ぐらい。40も半ばを過ぎたら、死のうが生きようがどうでもいいことだと、私の中で完全な答えが出てしまった。
例えば、45歳からピアノを始めれば、85歳になる頃にキャリアが40年になるわけだが、プロになれるわけではない。あくまでお情け程度のキャリア。生きるためのモチベーションを上げるには、私にはこんなものなんの意味もない。
何度も目標を見失っているうちに、モチベーションをどこかに根こそぎ落として、失ってしまった。そしてそれは、20年経っても見つからない。
まさに命を繋いでいることが精一杯だ。
何の意味もないその命を繋いでいるのは、パンダと釣り、見たことない素晴らしい景色がどこかにあることぐらい。一身上の都合で、結婚や恋愛に、一切、期待できない。これも、自分のモチベーションを下げる大きな要因。本能である、種を残すことすら叶わないことが確定している。
人間嫌いで友達もいない。
挙げ出したらキリがないほど、生きるのを諦める理由に事欠かない。
寅さんのこの台詞は、私の中でのもうひとつのスタンダードである。
生きている事に意味はないし大した価値もないが、(←ここまで持論)
「生まれてきて良かった」のために生きる。
持論と合わせても、まだ文脈として通るのだ。
ただ、やはり、いつか親がいなくなり、独房で死刑を待つようなひとりっ子の恐怖にさらされ、病に苦しみ抜いてまで「生まれてきて良かった」の瞬間を待つのだろうか。自然に死ぬまで、生まれてきて良かったを待てるのだろうか。山田洋次監督はどう答えるのだろう。
「生まれてきて良かった」のハードルもそれぞれであるが、それなりにハードルが高いものだと私は思う。