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大江健三郎 『個人的な体験』 を読んで。
先日、本屋さんに行った時に偶然この本が紹介されていた。
「わが子が頭部に異常をそなえて生まれてきたと知らされて、アフリカへの冒険旅行を夢見ていた鳥(バード)は、深甚な恐怖感に囚われた。」
その文章を読んだだけで、この本を購入することを決めた。
たった1文なのに、含まれている情報量の多さ、そして、経験はないのになぜか何か感じ入るものがある不思議。これは面白いに違いないと感じた。
表紙の絵には、繊細かつ不気味な雰囲気と、独特の哀しみが現れている点にも惹かれた。町田久美さんの「木馬」という絵だった。
さて、今回の感想は、『個人的な体験』大江健三郎著である。
この小説は1964年に書かれた。驚くべきことに、もう約60年も前の小説だ。
主人公の名は鳥(バード)。子供の頃から、ずっとこのあだ名でみんなに呼ばれている。この物語は、彼が妻の出産成功の連絡を待っているシーンからスタートする。しかし、バードの心情は、およそ子供が生まれてくる親の心情として我々が想像するものとは全く違っていた。ずっとアフリカへの旅を夢見てきたバードにとって、子供が生まれてくることは、その夢を絶望的に遠ざける存在として感じられている。そのためか、今まさに妻が出産をしているというタイミングにも関わらず、バードは夢を諦め切れずに書店でアフリカの実用地図を購入していた。
逃げ出したい欲望との葛藤の物語
冒頭のシーンからもわかるとおり、このバードという男は、今の現状を受け止める代わりに、自らの夢のために逃げ出したいという感情を持っていることがわかる。端的に言うと、この物語は、主人公が「逃げ出したい欲望」と葛藤し続ける話と言えるかもしれない。しかし、主人公は更なる重大な報告を聞くことになる。それは、生まれてきた子どもの頭に大きな瘤がついているということだ。それは頭が二つあると思われるほどに大きく、手術をして切り取ったとしても、植物人間的な生き方しかできない子どもだと宣告される。もともと逃げ出したい欲望を持っていたバードは、その事実を受けて、さらなる逃避行動に自分を貶めていく。
逃避先としての女、火見子 : 正妻との違い
バードが逃れる場所はどこか。それは、別の女のところだった。
バードは、子どもの状態のことを妻に打ち明けられない。
なぜなら義母と、妻に知られないように子どもを「処分」することを約束してしまったからだ。
このことから、バードの妻は、親に守られ続けている存在ということがわかる。社会の外側や、不潔な部分は見ることがなく、生きてこられた人間だ。こういう人は、外の世界へと逃げたくなるという感情を持つことはない。
なぜなら、常に誰かに守られていることが当然だと考えており、それ以外の責任を取ることは最初から視野に入っていないからだ。自覚もないだろう。バードとは違う意味で、責任を取ることを拒んでいるとも言える。
一方で、バードが逃げ込んだ先の女、火見子は、妻とは真逆の人間といえる。つまり、社会のアウトサイダーであり、誰に守られるでもなく「独立」している。ただ、火見子もまた、責任を取ることから逃げている人間といえる。だからこそ、責任から逃れたいバードの逃げこむ先として、適任だったわけだ。そこでバードは、火見子との快楽に溺れる生活に没頭していく。
「社会」からの逃亡、そしてアウトサイダーへ
そんな生活をしているうちに、バードは仕事先での解雇も決まる。
本当に全責任から解放されることになったのだ。
ただ、一つの大きな問題はそのままに残っている。
病院から、子どもの衰弱死の連絡を待っているバードだが、その連絡が一向に来ないのだ。
ストレスフルな生活が続いていく中で、友人からある依頼をされる。仕事先で仲良くしていたデルチェフという大使の男の様子を見てくるように頼まれるのだ。デルチェフという男は、大使館で務める社会的な地位を持った男なのだが、ひょんなことから日本人の女の子の家から出てこなくなってしまったというわけだ。
デルチェフとバードの対比
デルチェフに会いにいくと、彼は女の家にいた。大使館に戻らないと、母国への強制送還が決まると告げるも、デルチェフは彼女の家にいることを選ぶ。彼はただ「彼女が自分を必要としている」という理由だけで、そこから出ないのだ。一方でデルチェフは、彼の子どもの状態を聞いて、「なぜ手術をしないで衰弱死するのを待っている?」と聞く。この男は、バードが出会った人たちの中で、唯一この選択について真正面から問いただした。私は、デルチェフとバードは大きく対比されていると感じた。つまり、一人の人間のために世間を捨て去るデルチェフと、世間のために、一人の人間を消し去るバードという対比だ。また、「今」を理由にそれを実行するデルチェフと、「未来」を予想してそれを実行するバードとも言える。しかし、これはどちらが正しい、正しくないとは言えないだろう。ただ、デルチェフは強制送還をされた先に幸せな未来があるとは思えない。なのに、彼はきっと「逃げない」だろうということは見える。彼は、その場その場で、常に責任を持つ道を選ぶはずだ、となぜかそう思わせてくれる。
バードはもう鳥ではなくなる。
ここで、話のつづきを見る前に、バードという名前についても考えてみたい。バード、つまり鳥とはどういう存在か。鳥は、いつでも飛び立てる存在だ。地に足をつけるのではなく、空にいつでも飛んでいける。つまり、責任を取るというよりも、自由きままに生き続けたいバードを象徴しているといえるだろう。
さあ、話の続きに戻ると、その後、バードは病院での子どもの死は見込めないとして、火見子の提案で、火見子の知り合いの闇の医者のもとに子どもを連れて行き、死を依頼する。そして火見子はさらに、妻との離婚、子どもの死を経たあとに、二人でアフリカへの旅を決行しようという魅惑の提案をする。バードはその提案に心を踊らせる。しかし、すんでのところでそれを考え直し、闇医者のところへ子どもを取り返しにタクシーを走らせる。その時のバードの心情は
おれがいま赤んぼうを救い出すまえに事故死すれば、おれのこれまでの二十七年の生活はすべて無駄になってしまう。かつてあじわったことのない深甚な恐怖感が鳥をとらえた。
というほどに変わっている。もう冒頭の鳥(バード)はいなくなったのだ。
この一文で、バードは責任を取ることを選んだ人間に戻ることができたと考えることができる。
逃げてもいい、帰ってこれば
さて、ここからは、私の感想に移っていく。
この話は、人間の弱さ、脆さをとても綿密に描いていると思う。
アウトサイドにいつでも出られてしまう人間の弱さ、そして、そのアウトサイド側はいつでも私たちを迎え入れるし、それを待ち望んでもいる。
人間の負の感情が、一度心に巣食ったらどんどん肥大化していくように、あちら側も我々を取り込んでどんどんその世界を広げていこうとしている。
でも、そちらに逃げ込むことを、私は悪いこととは捉えていない。
人間は脆い、弱い。だからこそ、時にはそちら側に行って、どん底まで自分を貶めないといけないほどに、機能不全になることはあるのだ。
ただ、私は、その自分のどん底を見たら、そこから這い上がりたいと思う。
いつまでもその世界には、いてはいけないと思う。
バードも、同じく自分のどん底の感情を見た。自分の欺瞞を見た。
しかし、その世界に最後に別れを告げた。
だからこそ、自分を肯定して生きられるようになったのだと思う。
物語の中で、火見子が語る「多元的宇宙」の話も実に興味深い。
この話は、ぜひ実際に本を読んでみて考えてほしい内容だ。
ただ、私が気になる点は、火見子と彼女の世界の住人についてだ。
悪く言えば、火見子や彼女の友人たちは、バードが逃げ出したい気分の時に利用された、搾取された存在と見ることもできる。
彼女たちの行く末、希望的な未来があるのかどうか。
そこは私がまだ考えなくてはいけないことだと感じた。
最後に
この本のラストには大江健三郎自身が、この本を年を経て読み返してみたときの感想が書いてある。そこで私は、初めて、この物語が、大江さんご自身の体験をもとに書いてあるということを知った。大江さんの子どもが脳瘤を持って生まれ、その誕生を経てこの物語を描いたとうことだそうだ。60年も前の時代には、「障がい」というものが今とは全く違う重みを持っていたのではないか。そして、大江さん自身も、この物語を書くことが、自分にとっての救済になっていたとも書いてある。
自分の状況を受容すること、そのためには何が必要になるのか。
物語を読んで、さらに大江さんの言葉を読んで、考えが深まる作品でした。