美味しんぼの鍋対決に見るポリコレ映画

はじめに
この記事には美味しんぼの鍋対決のエピソードのネタバレを含みます

・あらすじ(美味しんぼ鍋対決)
単行本31巻収録のエピソードである。
基本的にはいつものように対決の題材が話の流れで決まるのだが、鍋対決にしようとなった際海原雄山が
鍋は土着料理と呼べる代物で、それらを差し置いて究極だの至高だのを繰り広げたら読者に不快感を与えるだろう、と前置きしつつ
「私は、誰もが納得し喜んでくれる至高の鍋料理を作る自身がある」
と自信満々だった。
自信満々なのはいつものことだが、自分から千差万別な鍋料理で究極とか至高とか言うべきではないとしつつも「その上で」至高の鍋を出すというわけで、開始前から何かの確信を持ってる海原雄山。
山岡ははたしてどうするのか、という対決回である。

 ・究極のメニュー
鍋料理について調べるとやはり多種多様であり、究極の鍋とはなんなのかで悩むことになる
そんな時に茶人の丿貫という人物と知り合い、その際に教わる茶道の考え方にもある「もてなしの心」というものが鍋料理にも必要だと判断して究極の鍋を考えるのだが、実はこの時「もてなしの心」について解釈違いをしていた。
山岡は茶道の丿貫から教わったとして「もてなしの心を鍋料理で究めようというのが、究極の鍋料理です」と究極の鍋・万鍋を紹介する。
誰にでも喜ばれるというコンセプトの鍋。材料は豊富に魚介6種、肉類5種、つみれ類3種に加え餃子にシューマイ、ワンタン、餅、きりたんぽ、うどん、各種野菜、さらにタレと薬味も十数種類。
もてなしの心を究めるという一線を守ればどんな材料を使ってもみんなに喜んでもらえる、という万鍋を究極の鍋料理とした……
のだが、
「これがもてなしの心とは笑止千万! 究極の鍋料理やぶれたり!」
と海原雄山に宣言されてしまう。

 ・至高のメニュー
そんな海原が用意したのは
スッポン鍋
フグチリ
アワビのシャブシャブ
ハモとマツタケの鍋
カニ鍋
の五つ。
どの鍋も一点に突き抜けた至高の一品。
↑の究極のメニュー万鍋とは名前だけで既に味わいが違うとわかる。すなわち「美味い(確信)」
だが海原雄山の説明によると
アワビのシャブシャブは究極側が確立した調理法で、
ハモとマツタケの鍋とカニ鍋の情報は究極側も把握していた、
したがって究極側もその気になれば至高のメニューと同じものを出せたということを伝えつつこう続ける。

「まず究極側は、鍋料理の本質を心得違いしている。鍋料理はいっしょに食べる人同士がくつろぎ、心を通い合い親しくなれる、またそのための料理だと言う。しかし、それならなにも鍋料理に限ることではない。」

全くの正論である。

「だいたい人と人とが心を通い合うのに必要なのは、鍋料理がいいかバーベキューがいいかなどという技術論ではない。それこそもてなしの心なのだ!」

鍋料理は飽くまでも手段であって目的ではない。

「鍋料理の本質はなにか考えるがいい。本質の一、フグはチリにするのが一番旨いからチリにする。スッポンも、アワビもカニも、ハモとマツタケも、鍋にするのが一番旨いという必然性があるからだ。本質の二、鍋は食卓で調理するところに最大の意味がある。調理する場所と食べる場所に距離がない。それはなにを意味するか。熱だ。料理がごく熱いうちに食べることができる。熱いまま食べることの旨さを理解してこその鍋料理なのだ。以上、二つの本質を追求してこそ究極とか至高の鍋料理と言える」

すなわち「至高の鍋」とは鍋にして食べることが旨さの最大値になる料理を全力投球する鍋である

・もてなしの心
茶人の丿貫も審査側にいたのだが
「私は海原さんの料理が好きだな。山岡くんたちの料理よりずっと素直じゃよ」
と賛同。
そして丿貫はもてなしの心とはなにか語る。

「お二人は、もてなす心と、相手に気に入られようと媚を売る気持ちとを、取り違えたのではないかな。あれもこれもととりそろえ、誰の趣味にも合うようにできているが、もてなされる方はうんざりする。」

生きてく上でこの間違いは気をつけなければならないだろう。

「一方、海原さんの料理は単純明快、これ以上の物がない美味しい鍋料理を食べさせてやりたい、その心がみなぎっている。カニはこうして食べるのが一番旨いという信念があふれている。」

相手に合わせるのも大事かもしれないが、だからといって自分の信念まで曲げると最早何がしたいかわからなくなる。

「我われはその海原さんの世界を見せられて、さあどうぞと招かれる。そこには、いっさいの媚がない。自分の裸の心まで広々と開いて、そこに招いてくれる。それが真のもてなしだ」

至高のメニュー完勝である。
なにも高級食材でやれというわけではない。その人間が出せる全力の方法で相手を「もてなす」こと。今回の場合海原雄山が用意できる美味い鍋が5つだっただけで数には決まりもない。
旬とか季節で取れない食材などで作るものが変化する場合もあるかもしれないが、なによりこれらの鍋を前にして、味付けの好みなどが違っていたとしても
「俺の地元の鍋のほうが美味い」
とはならないのが肝心。
まぁつまり至高の鍋とは今回の場合「(海原雄山が出せる最高の)もてなしの鍋」というわけだ。

・ようやく本題
結局のところこの話で今回なにが言いたいのかというと、まぁタイトル通りだしここまであらすじ書いたらもうわかると思うが、
ポリコレ映画はまさに究極のメニュー万鍋である

まぁ映画に限らず、ポリコレ配慮でドラマだのを作ることで本質的なものを見失ってるのではないかってこと。
映画の本質とは?
作り手の「観客を感動させてやろう」という気概
売り手の「この映画に金を払わせて満足させて儲けたい」という商業主義
観客の「スクリーンに広がる世界に没頭したい」という満足を求める心
こういうのが本質だと思うわけで。
ポリコレ映画はこれらの本質を投げ捨てて配慮にだけ拘ったせいで誰も得をしないモノになっている。
本当にポリコレ映画が本質を失ってないなら現在のような批判を跳ね除けてバカ売れしてなきゃおかしいのだ。
じゃあ今本質を失ってない映画ってなんやねんと聞かれれば

マリオ映画

やろ。
配慮なんてなにもしてないスーパーマリオのアニメ映画である。
だがバカ売れである。
観客が見たいと思ってたモノが最高の形でお出しされてるのが、ちゃんと結果に繋がっている。


「一方、海原さんの料理は単純明快、これ以上の物がない美味しい鍋料理を食べさせてやりたい、その心がみなぎっている。カニはこうして食べるのが一番旨いという信念があふれている。」

マリオ映画とはまさに至高のアニメ映画なのだ。

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