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差別とは/言わないまでも/ドラマでは/ホステスの名は/決まってアケミ◆「私」と「母」についての私的な覚え書き。③




五月にある人は言った。 どれだけ親孝行をしてあげたとしても、いずれ、きっと後悔するでしょう。 あぁ、あれも、これも、してあげればよかったと。 

リリー・フランキー
『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』




私の母の名前は『アケミ』である。


「暁」に「美しい」で『暁美』。


令和5年5月6日に76歳で亡くなった、私の母の名前である。 


私は、自分の母ほど「強くて、弱くて、イイ女」を見たことはない。


彼女は、たしかに「私」が、今まで生きてきて、目にした「女」という生き物のなかで、一番「イイ女」だったと思っている。


『目には目を』という法則通り、通りを歩いていて、他人に追い越された拍子に腕がぶつかり、相手がそのまま知らんふりして歩き去って行こうとしたら、あとを追いかけていってまで、ぶつかり返すという、烈火のような強さがある反面、情緒が不安定で、ストレスに弱く、常にイライラしており、アルコールとタバコは手放せなかった。


「私」は、彼女に寄り添い、生きてきた自分を「苦手」には思うけれど、彼女の脆く壊れやすい精神に同調することなく、自分を「無」にして、自分の幼い精神を守った「私」の、あの頃の自分の判断に対して、後悔はしていない。


ひどく弱い精神を、大阪で生まれた女は、負けん気で覆い隠し、他人の前では、ひどく強く在ろうとした。


本当は、ひどく弱いのに、家庭のなかに「父」がいない「私」のために「強く在ろう」としてくれた。


いつまでも、一緒に「居る」のだと思っていた。


「私」という存在は、きっと「母」という希有な人間がバラバラと、ガラガラと、サラサラと、儚く壊れてしまわないように、ソレを支えるための、なにがしかのパーツであったように思う。


私は、自分のそんな「生き方」に違和感を覚えたことはない。


それが、例え共依存の関係性だったとしても。


ずっと、一緒に、居たかった。


「無」としての「私」が「生きやすい」世界は、変わることなく「母」のそばだけだったのだから。


私の、大好きな「母」の覚え書き、ラスト。





◆前回のあらすじ的なモノと強迫観念的なモノ。


18才で、神戸・山口組の組長の嫁になり、極道の妻というモノがイヤで別れ、カタギになると言った同組の若頭と二度目の結婚をし、二人の男児を産んだが、やはり893は893でしかなく、相手はカタギになってはくれなくて、仕方なく子どもを置いて逃げ、新宿・歌舞伎町のクラブで黒服の父と再婚し、父側にも子どもが既にいたこともあり、置いてきた自分の子ども二人も引き取って育てようとしたが前夫側が応じず、親権を家庭裁判所で争い、勝ったにも関わらず、やはり子どもは渡せないと、なんやかんやと脅され、結局は泣く泣く諦めて、私と、父の連れ子だった兄と姉を育てた、大阪で生まれた女、それが、私の「母」である…

のっけから、処理しきれないほどの情報量の多さで、大変恐縮だが、彼女の歩んできた道が、あまりに波瀾万丈すぎて、嘘みたいな希有な人生で、ホントに笑えてしまう。




母曰く「戦時中に生まれたから、冷蔵庫の中がモノでいっぱいだと安心する」とのことで、常に冷凍庫も冷蔵庫も野菜室も満杯で、私が長期休暇などで休みのときに掃除をすると、必ず野菜室の下のほうで、九分九厘の確率で、大葉が腐っており、黒いドロドロした液状化したモノに変化していて、マジで勘弁してほしかった。 

冷蔵庫に入れていても、腐るもんは腐ることを知ったので、それからは、半年に一回くらいの頻度で、野菜室は掃除をするように心掛けたけどな。


お弁当の中身の雑さは、私が高校一年になっても、全く変わることはなくて、友人のお弁当にかわいらしいフルーツが入っているのを羨ましいなーと、横目で眺めつつ、まぁ、弁当を作ってくれるだけ有り難い話だよなーと、彼女が作る弁当に、豊かな彩りを求めるのは、あっさり諦めた。


チャッカマンのごとく、即キレるのも相変わらずで、すれ違いざま、肩がぶつかったら、追いかけて、自分から相手にぶつかりに行くというような「目には目を、歯には歯を」というハンムラビ法典を体現できる、自分が許し難いことをしてくる他人に対しては、かなり当たりの強い人だった。

私としては、彼女の体調が悪かったり、機嫌が悪かったりすると、本当に何処からでも、何にでも、いちゃもんをつけられて、まるで当たり屋のように、すぐにキレられるので、大学に入学し、簡易的な一人暮らしをするまで、ずっと、彼女の顔色だけを見て、息をひそめ、気配を殺して、空気のように、ひっそりと生きていた。




非常にピンポイントで、覚えている瞬間がある。

まだ、ひとりで、台所の火も使えないくらいの頃、母が二日酔いで寝ていた、土曜か日曜の朝。

その頃、何故かは知らないが、うちには菓子パンなどといった、すぐに子どもがひとりで食べられるモノが全くというほど置いていなくて、母が起きてくるまで、朝ごはんが食べられなくて、母がトイレか何かで起きたタイミングで「おなか、へった」と恐る恐る訴えると「待ってないで、冷蔵庫のなかにハムでもなんでもあるんだから、それを食べればいいじゃない!」と怒鳴られ、それ以上、怒られたくはなくて、慌てて、自分で朝ごはんの用意をしようとしたら、ハムをのせたお皿を取り落としてしまった。

その瞬間に、母にひっぱたかれたことがある。 

ものすごい反射神経やな…


それからの休みの日は、母が二日酔いで寝ているときは、冷蔵庫のなかにあるモノで勝手に朝や昼を食べて、母が自然に起きてくるまで、母を起こさないように、アパートの部屋の片隅で、ずっと息を潜めて、物音ひとつたてないように、ひたすら、じっと座って、本を読んでいた。


その頃の名残りなのか、正社員になった会社で、事務所の階段をぺそぺそと上がっていったら、二階にいた当時の店長に驚かれ「足音なくて、階段から急に現れるの、びっくりするから、鈴でもつけたら?」と言われたが、半笑いでスルーしたことがある。

こちとら、猫ちゃうぞ…



年齢が上がっていった小学高学年の頃には、ひとりで神経質なくらいに息を潜め、物音なく過ごす、せっかくの土日に嫌気が差して、アパートから一番近いコンビニにパンを買いに行って、公園でプラプラと食べて過ごしたし、中学生くらいになって、チャリンコで行けるところにジャスコがオープンしたので、10時になったら、その中のマクドナルドに行って、朝イチでハンバーガーを黙々と、ひとりで食べていたような記憶は、うっすらとある。

中学2年くらいのときに、何が理由かは、私のポンコツな脳内データにはきれいさっぱり残ってはいないが、当時、住んでた家の廊下で、往復ビンタされたのが、母から熾烈な怒りを向けられた最後だったように思う。


母に、そういう強烈な一面があると、きちんと理解している反面、何故か、小学低学年の頃から、かなりの間ずっと、私は、学校から帰ってくる私を、待っている母のところに、一刻でも早く帰らないといけないと、強迫観念的に思い込んでおり、小学校の集団下校のときも、ひとりだけ、さっさと帰ってきていたし、友達の家に遊びに行ったとしても、家に「母が、ひとりで居る」という事実に、私自身が耐え切れなくて、いつもなるたけ早く母のもとに帰るようにしていた。


そして、なんらかの理由で、自分の帰り時間が遅くなってしまうようなときは、何故か、罪悪感に押しつぶされそうになり、べそべそと泣きそうになっていた。


「母」を「ひとり」にしてしまうことに、何故、あんなにも「私」が罪悪感を感じたのか、私にはよくわからないが、外に出かけたときに、今でも、あの感覚を思い出すと、早く帰らなくちゃ…という、強い焦燥感で、泣きそうになる。


もう「私」を待っていてくれる人は、この世界には、どこにも居ないのだけれども。



そんなふうに「私」の思春期という多感な時期さえも、湧き上がる「母」へのなんともしがたい自分の気持ちを殺して、薄らぼんやりと、反抗期的なモノを横目に眺めたまま「私」は「無」を貫いて、延々と「母」のそばに寄り添っていたワケである。






◆「母」という主体なきあとの、パーツとしての「私」とは。



「私」は、自分の存在を最小限に殺し、その時々に自分から湧き出る感情を偽り、いつだって不安定な「母」の情緒にぴたりと寄り添い、八つ当たり的に自分に向けられる「怒+哀」を受け流し続けた結果、私は「母と生きていくためには、生きやすい自分」を確立し得たが、主体たる「母」が亡くなったあと、「自分」というモノの無さに、愕然とした。
 

こんなふうに「私」を客観的に考えるキッカケは、やはり「母」の死であることは間違いないし、彼女の存在に寄り添い、彼女と一緒に生きていくために、私自身が「生きやすく」自分という個を殺し、偽り、生きてきた、これまでの「私」を否定することもないし、自分の母親が憎いとか、嫌いとかいう、負の感情は一切ない。


彼女が亡くなるときに、私が勝手に約束した「ずっと一緒にいよう」という言霊は、別にそのとき、初めて発したワケではなく、私が多分、もっと若い頃…、例に漏れず、すっかり忘れてしまったけれど、父が蒸発したくらいには、既に母へのバースデーカードには書いて、贈っていた言葉なので、その気持ちに、今でも偽りはないし、特に変更点もない。


私は、今も昔も変わらずに、身内の欲目だとしても、彼女のことは、私が出会った女性のなかで、本当に「一番、イイ女」だと思っているし、私の「母」ほど、「イイ女」を、私は知らない。


ずっと、一緒に、居たかった。 


私の、大好きだった「母」の覚え書き。




そして、2024年の年明けに、映カ!に見事にハマるのだが、何故こんなにも、綾野さん演じる「成田狂児」という人間が、ものすごい苦手なのかと考えたところ、まぁ、見た目的なことも重々あるが、結局は「自分を持たない」「無」「空っぽ」という点で、同族嫌悪なことに、ふと気付いて、天を仰いだ…


しかも、あの893の人には、893の人を照らす、眩しい光→聡実くんという存在がいることにも、かなり羨望と妬みがあるので、こんなに苦手でも、しゃーない(-_-)


原作者さまの握手会かなんかの情報だと「狂児」というキャラは最初から、ずっと原作者さまのなかにいたが、ずっと「ひとり」で、その「狂児」のために「聡実くん」という存在がうまれたらしいというのを、小耳に挟んだオタクは、ギリギリ、ギリィ゙ーと歯ぎしりするほどに、あの893の人、羨ましがったからな…


まさに「求めよ、さらば与えられん」か…


神も仏も信じていないであろう893の男が、求めた唯一の光が、聡実くんならば、オタクにも与えていただきたいわ、マジで…


と、考えたところで、あぁ、そういう意味で捉えるならば、「私」の光は、やはり亡き「母」だったのだろうと思うけれども。

聡実くんには癒されるけど、ハンムラビ法典な母には、絶対に癒されへんしな…



求めよ、そうすれば、与えられるであろう。
捜せ、そうすれば、見いだすであろう。
門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。
魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。
このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。
だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。
これが律法であり預言者である。

マタイによる福音書 7:7-12