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映画「カラオケ行こ!」DVD発売直前、やっぱりこの物語はラブストーリーだし、ハッピーエンドだと、偏執的に解釈した感情についてのアレコレを書き殴るだけの、私的な覚え書き。
⚠ネタバレしかない。
⚠オタクの私的な覚え書き。
⚠オタクの妄言多謝。
⚠「カ!」原作は、映画を観る前に一度、35回目を観終わった後に三度、読了済み。
⚠「ファ!」一度読了済み。
あっという間に、DVD発売日…
ここ2ヶ月くらい、聡実くん不足がかなりヤバい段階に突入したらしく、ぼんやりしてると、オタクの頭の中は、エンドレス「聡実くん聡実くん聡実くん聡実くん聡実くん聡実くん…」ってなって、非常にしんどかった…
自分で、自分が怖いわ。(ヤンデレか)
夜中、左足が、ピッキーーーッンってなって、目が覚め「いっ、たぁ…」と、一回ベッドから降りて、血流を下げて、眠すぎて、もう一回寝たら、今度は右足、ピッキーーーーーッン…
7月にはいり、新しい職場に通ってますが、駅から遠すぎて、毎朝、汗だく。
あきらかに水分+塩分が出ていってるほうが多いからか、今年というか、この夏は、めちゃめちゃ、足がつる。
なんなら、毎日、つる。
いわゆる、こむら返りってやつで、毎年、まぁまぁな割合で就寝中に、膝から下が、ピッキーーーッンってなって、悶絶しながら、起きて、すぐに蹲るけども、こんなに頻度高くなかったし、なんなら、起きてても「…ふくらはぎ、いったぁ……」ってなるの、マジで終わってる。
なに、なんかの呪いなん?
それこそ、昼間にきちんと水分補給すればいいのでは?という簡単な話ではなく、もともと、人間の身体構造上、筋肉に水分って保持されるらしく、そうなると、筋肉のついてないオタクの虚弱な身体は、水分摂取したとしても、保持量が元来、少ないから、ちょっと汗だくになろうもんなら、あっちゅうまに、干からびんねん。
どうしようもない…
いや、筋肉を増やせばいいだけの話だったりもするんですけどね、運動、キライやねん…
小さい頃から、三半規管も弱く、何もない所で転げまわり、躓き、スーパーに行く母のチャリンコの運転にさえも酔って吐き、オマケにめっちゃ運動オンチで、かけっこは、毎回ビリで、50メートル走とか、たしか学生の時、めちゃくちゃ遅くて13秒台だった気がする…
そんな訳で、小学校、および中学校の運動会は、母公認で、ズル休みしてました。(まさかの元気)
うちの母は、挨拶とか礼儀とかには、かなりうるさかったけど、食べ物の好き嫌いとか、こういう得意不得意みたいなものに関しては、こちらの気持ちを優先してくれていたというか、母自体が食べ物の好き嫌いの多い人で、なおかつ、運動が苦手だったみたいなので、共感?仲間意識?同情だったのか、そこらへんは、非常にユルっとした感じで、無理強いはせずにいてくれていた。
子どもとしては、非常に有り難かった記憶がある。
まぁ、そんな感じで育った環境のもと、筋肉量のないオタクは、平日は駅から離れた職場の通勤に体力を削られ、土日はエアコン+Wi-Fiを求めて、乗り換え駅のネカフェで、午前中は引きこもっております。
なので、原作『カ!』を、ちょろちょろ読み返していたけれど、読めば読むほど、原作って、ホント、映画とは違うなーと、しみじみしてしまう。
ベースは、きちんと一緒なんだけど、味付けが違うみたいな…
なんやろ、カレーライスと、カレーうどんみたいな?
違うか…
あ、お好み焼きの関西風と広島風?(例え、下手か)
◆
前述しているが、聡実くんのブチ切れシーンって、原作だと、声変わりの悩みの内容を知らないと思われる狂児に、聡実くんが中学3年間がんばって部活をしてきて、その頑張りがきちんと評価されて、部長も任されたけれど、そこまで築きあげたボーイソプラノとしてのアイデンティティが、成長期という通過儀礼によって、足元から崩れさっていく不安のなか、3年間の集大成ともいえる、自分にとっては真剣勝負の合唱祭を軽く扱われたみたいな、それまでに色々と蓄積されていたマイナスの感情の発露としての、八つ当たりに近いキレ方だと、個人的には感じている。
聡実くん的には、ずっと悩んでいたけれど、原作では、狂児に対しても、その悩みを打ち明けられてはいなかった。
悩みをたったひとりで溜め込んでしまったこともあり、能天気な狂児の言葉をきっかけにして、ブチ切れたんだと思うし、狂児のほうも、聡実くんの八つ当たりっぽい怒りに対して、からかってしまい、ちょっと悪かったかなという、軽い受け止め程度。
たしかに、そういった原作の流れだと、聡実くんの怒りに対して、狂児の受け止め方は、聡実くんが声変わりに悩んでいるのを、薄々気付いていたとしても「子どもが、自分が思うようにいかなくて、癇癪をおこしている」くらいの、大人の余裕な感じで、狂児は笑っている。
けれど、映画軸では、原作とは違って、聡実くんの後ろ姿を、じっと、目で追う狂児の表情は、笑ってはいない。
映画軸の狂児は、あの聡実くんブチ切れ時点で、聡実くんの「成長期過程での悩み」を、本人から軽く打ち明けられてはいたけれど、それをどこまで、狂児自身が深刻に捉えてあげていたのか。
狂児の聡実くんの悩みについての受け取り方は、やはり、そこまで重くはなくて、結局のところ、聡実くんが、どれくらいの間、ずっとひとりで悩んでいて、聡実くんにとって、声変わりという成長期が、どれくらい、不安で苦しいモノなのかは、本当のところでは、理解できていなかったし、狂児自身が理解しようとしていなかったから、ああいう茶化しが出てきてしまったんだろう。
それこそ、何気なく、相手の気持ちを踏みにじるような。
まぁ、それはしゃーないとも思う。
狂児は、聡実くんではないし、聡実くん本人的にも、別に狂児に全てを理解してほしかったわけではないだろうし。
ただ、聡実くんとしては、あの屋上で、ずっと悩んでいた心が、狂児の言葉によって、キレイな声が出なくなったとしても、自分自身をまるっと受け入れてもらえる人が、きちんと、自分には存在するんだっていう認識が、聡実くんの声変わりに対する不安の、多少なりとも救いになった感覚はあって、あそこが、聡実くんから狂児への「想いの変化」のターニングポイントになったのだろうとは思っている。
初めのうちは、それこそ、宗教的な概念を一因として、狂信的なくらいに、狂児からのバカでかい矢印が、聡実くんに向かっていただけだったのに、あの屋上シーンでは、聡実くんからの狂児への可愛らしい矢印も、ちゃーんと感じるし、もう両思いやーん!ってくらいのイチャつきを感じてしまう。
感じてしまえる、まぁ、腐ったオタクやからな。(どやさ)
◆
原作と、映画化された作品が、違うというのは、ものすごく当たり前のことだと、個人的には思っていて。
原作は、原作者が大抵は、たったひとりで考えた、その人の頭の中だけに存在する「架空の物語」なのだから、その物語に登場するキャラクターたちが、本当に何を考えて、そういう言動に至ったかのなんて、ましてや、未来の物語が、どうなるのかなんて、原作者以外の他人には、わかるわけがない。
もしかしたら、原作者本人も、自分が想像した架空の物語の未来など、もう既に想像していないかもしれないし。
それを思うと、原作がアニメ化やら映画化やら実写化される場合、原作者自身が脚本を監修するとか、監督するとかしないことには、絶対に原作からの乖離が生ずるのは、自然なことだし、それはもう、やっぱり原作とは違った作品だと、受け取る側としては認識せざるを得ない気がする。
そんななか、原作の基本的なポイントを踏まえた上で「こんなふうに味付けしたら、もっと美味しくなるんちゃう?」と、ベースの味を壊さず、さらに旨味を生かした味変、解釈をしたのが、今回のカ!の映画化って感じがした。
これは、やはり、色んな媒体で、色々な方々が仰っているように、映画化に携わった脚本家の方の「他人が産み出した物語を、自分のなかに落とし込む力、解釈するセンス」みたいなモノの感覚が、ずば抜けて素晴らしいんだろうなーと、しみじみ思う。
◆
映画軸の時間設定的には、前後してしまうけれど、映画独自設定っぽい「天使の歌声」「お告げ」「バイブル」というセリフのチョイスから、個人的にイメージしてしまうのは、その宗教的な感覚での、893の人の自称・運命の出会いというべき、狂児が聡実くんを見つけて、つきまとう流れについて。
それこそ、宗教的な概念要素をもって、狂信的なくらいに、初めから、狂児からのバカでかい矢印が、聡実くんに向かっている。
原作では、狂児の独断だった聡実くんへの強い視線、そこに、狂児のどういう心情が含まれているのかは、読み手には、一切わからないけれど、映画軸では、そこに、さらなる高みからの、人智を超越した力を感じさせることによって、まるで「人間ごときでは、抗えない定められた運命」として、狂児と聡実くんの出会いが、より強固な繋がりに思えてしまう。
狂児と聡実くんの出会いが、まさに赤い…紅い?糸的な、スピリチュアルな繋がりな感じというか。
そういった受け取り方をすると、初っ端からの893の男の、中学生男子に向ける異常ともとれる粘着質さを感じる、執着の理由の一因として、すごく説得力を持つし、個人的には、なんだか、すごく自然な気がした。
なんと言うか、色んな倫理的観念が、頭をよぎったとしても「893の男の言動が、中学生の男の子相手に色々ヤバいけど、まぁ、神様、信じちゃってる系なら、そら、しょうがないわなー」という納得感というか、諦めというか…(どんな納得の仕方)
私的には、そういう何か、目に見えない力によって、運命的に定められて、惹き寄せられた関係性がキライではないオタクなので、映画軸のこの設定は、狂児が強く、まとわりつくほどに強く、聡実くんを求める理由として、すごく自然に受け入れられた。
運命なら、しゃーない。
見た目、ものすごく犯罪臭がしてもな…
◆
「あんたが去ったとき、オレは振り返られへんかった。ハートが、めちゃ痛い。追いかけ続けてしまいそうで、怖い。あんたのマボロシ見てもうて。真実見つけに真っ暗な街を走ったで。記憶の中のあんたは、オレの心の中で光ってんで。ピカピカや」
映画軸の聡実くんは、スナック・カツ子で、鎮魂歌として、狂児のために歌を歌うとなった時、狂児の存在をきちんと「自分の大事な人」だと認識して、♪紅を選曲したのだと、オタクは偏執的に解釈している。
そして、狂児自身も、聡実くんが♪紅に込めた、その気持ちが理解できたからこそ、聡実くんの熱唱中、あの男のあの表情が、映画軸では見られるのだろうとも思う。
綾野“狂児”がインタビューで、狂児はどんな人か? という質問に回答した以下、再切り抜き。
「他者に対してフラットな人です。だからこそ中学生に対しても敬意を持つことができ、心の底では聡実くんと関わりたいと思っている一方で、関わってはいけないとも思っています。なぜなら、自分はヤクザだから。その特殊な距離感は、狂児が忘れていた、あるいは体験することができなかった青春の再現でもある。大切に演じました。狂児は基本的にはずっと20%くらいで生きてきたのではないかと思います。感情が極端に揺さぶられることもないし、歯を食いしばって100%で生きることもなかった。 でも、聡実くんと出会ったことで、それまでモノクロだった狂児の世界に色が生まれ、世界が変わっていく。」
演者本人の解釈を、ものすごーく素直に受け止めた時に思ったのは、自分の世界が色づいていく、その男の心の動きは、恋とは、どう違うのかということ。
狂児は、ヒモになったのも、893になったのも、まるで川に流される木の葉みたいに、そこに自分の確固たる意志はなくて、男の人生において、20%くらいの省エネモードで、楽ちんに生きてきたっぽいけど、その生き方が男にとって、楽しかったのかと聞かれれば、多分、心の底から楽しいことなんてなかったのではないだろうか。
だって、聡実くんと出会う前の男の世界は、それまでモノクロだったらしいしな。
男が息をしている世界に、白と黒以外の色が生まれ、男の世界が変わっていき、いつしか、心の底から楽しいと、まるでガキみたいに、聡実くんにじゃれて、心を通じ合わせることができて。
男は、それまで、自分の生死にさえ、さほど執着なく生きてきた感じがするけれど、男が多分、生まれて初めて、自分から手をのばし、つきまとい、執着した存在である聡実くんからも「大事な人」という存在意義?存在価値を与えられたのだから、そら、ぐって、わざわざ距離を一歩詰めて、じっと、聡実くんを見つめて「聡実くん置いて死なれへんしな」となるのだろうよ。
原作ならば、このあと、冗談だとばかりに「な~んちゃって」と続くけれど、映画軸では、2人の気持ちが通じ合っているため、冗談にする必要性はなくなっている。
狂児の腕のなかで、男の朗らかな笑顔を見上げる聡実くんの、ほんのり恋する乙女的な、眩しげな視線と、はにかむような、男が生きている事実に安堵したような微笑みは、すごく幸せそうにも感じて。
あと、映画の最後、聡実くんの「…おったやん」というセリフも、ちょっと嬉しそうな声音は、きちんと、想いが通じ合ってる感じがする。
映画軸の聡実くんは、あの時点で名刺を見つけることによって、狂児の存在は、自分の隣に本当に在ったし、マボロシなんかではないと、きちんと認識できているので、あれから、狂児が音信不通となっても、そこまで情緒不安定にはならないで済むはずだと気付いて、本当にホッとした。
聡実くんがツラい思いすると、心臓がギュッてなんねん…(親心…)
そして、3年後の狂児からの、聡実くんへのLINE電話の、あの大人の余裕とも思える、聡実くんに対しての、月日を感じさせない、何も変わらない、楽しげで、嬉しげな声音。
狂児的にも3年間、会えなかったとしても、最後のスナック・カツ子で、聡実くんの自分への想いは、きちんと受け取っているので、そこには揺るぎない自信ともとれる、2人の関係性が壊れずに、ずっと2人のなかで続いているという、確信めいたモノが感じられる。
映画軸では、2人の想いは、たしかに通じ合っていてのハッピーエンドだと、個人的には認識したからこそ、初見時、映画を観終わったあとの多幸感が半端なかったんだなと、今更のように気付いた次第。
◆
映画軸の聡実くんが、最後に大熱唱する♪紅について、わりと早い段階で、ネットの映画評か、ツイッターか、忘れてしまったけれども「あそこは、原キーで歌ってほしかった。映画は、原キーから2キー下」みたいな感想をあげている人がいたのを見た。
そんなん、普通に、声変わりが済んでそうな役者さんに無理言うなや、なぁ。
聡実くんのラスト♪紅の熱唱は、合唱としてのソプラノでは全くないのは丸わかりだし、ましてや役者さんの地声が、本家の歌手とは全く違うんだから、ボーイソプラノとの決別とは正確には違うけど、コレは漫画原作の映画化という二次なので、特に気にもしていなかったけど、聡実くんが狂児に捧げたのは「過去の天使の歌声ではなくて、狂児が受け入れてくれた、これからの綺麗じゃなくなった地声」というような指摘の記事を読んで、思わず、天を仰いだ…
聡実くん、狂児に捧げすぎやって…
それを理解したからこそ、あの893の人、「聡実くん置いて死なれへんし」って言うし、3年くらい音信不通になっても、普通にLINE電話して「いや〜、久しぶりやなぁ~、ん?今度は負けられへんからな。聡実くん、カラオケ行こ?」って言えるんやなぁ…
ここの狂児の、めちゃくちゃ明るい声音に、背中越しだけど、聡実くんに向ける男の、屈託のない笑顔を感じて、映画軸の2人の未来は明るいんだなと、いつも思っていた。
映画には映画版の、心が通じ合った2人の、そのあとがあるのだと、きちんと思える終わり方は、ハッピーエンド以外、なんと形容するべきなのか、オタクは知らない。
◆
noteに「狂児は聡実くんに一目ぼれであり、カラオケを教えてほしいというのはその口実でしかない。二人のカラオケ店でのイチャイチャを見せられるというラブストーリーだったのだ」というような記事があって、あー、ですよねー(真顔)ってなった。
結局のところ、腐ったオタク以外にまで、ラブストーリーと認識されるのならば、もう、それは、青春コメディとか言ってる場合じゃないですよね。
やっぱり、ハッピーエンドの多幸感もすごく感じるけど、それ以上に、湿度と粘度をもって、情緒をガンガン揺さぶり続けられる893の男と、中学生男子のラブストーリーなんですわ…
もう、犯罪臭しかしないけどな。(本日2回目)(遠い目)