旧中山道さんぽ03(蕨宿〜浦和宿)
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さんぽ概要
区間:02蕨宿〜03浦和宿
タイム:2時間10分
距離:7.2km(累計35.5km)
歩数:10,305歩(累計51,920歩)
パン屋の数:1店(累計14店)
費用:1,908円(累計4,693円)
お昼ロイヤルホスト1,628円
パン280円
※ 距離は寄り道をしているので最短距離ではありません。
やたらと長い記事は読む気がしないと思うので、超要約しますと、今回のポイントは5つです。
ポイント:
① お昼にロイヤルホストのジャワカレーを食べた
② 狛兎🐇の調神社良い
③ お寺に猫ちゃんいた
④ 横長の細いマンションやたら多いよね?
⑤「浦和」って名前のつく駅やたら多いよね?
上記ポイントの小見出しに鳥ちゃん🐥付けといたので、お忙しい方はその項目だけ目次から飛んでお読みください。
旧中山道さんぽ、3回目は02蕨宿〜03浦和宿です。
片側一車線の交通量の少ない県道を歩きます。
通り沿いには、歴史を感じる古民家を時折見かけます。
宝蔵寺
蕨宿を堪能し、疲れてきたので、外側からパシャリ。
一六橋
境橋
辻の一里塚跡
辻熊野神社
お昼は、最近お勧めされたロイヤルホストのビーフジャワカレーを食べるため少し寄り道をします。
🐥ロイヤルホスト浦和南店
カレー別添えです。シーザーサラダと一緒に食べました。チャツネがあるカレーなんて食べる機会ほぼないです。辛いけど美味しい。
店内には夫婦、家族連れ、おばあちゃんたちのほか、1人客も多かったです。
カレーは金沢カレーも好きです。浪人時代に御茶ノ水でよくゴーゴーカレーを食べてました。今も、時折、無性に食べたくなります。麻薬かな?
北海道でも金沢カレー系列のターバンカレーを食べました。
スープカレーも好きです。
あと、自分でつくるカレーも好きなもの入れられるので大好きなんですけど、よくブイヨン入りのルーを買ってました。
再び中山道に戻ります。
焼米坂
焼米坂の本名は浦和坂ですが、焼米を売る店があったので、いつしか焼米坂と呼ばれるようになりました。
そもそも、焼米ってなんですかね?
江戸時代の保存食のようです。いつか食べてみたい。
細い歩道を歩き続けると右手に木に鬱蒼と覆われた調神社があります。
🐥調神社
狛犬がうさぎです。
社名の調は租庸調の貢物を意味します。調神社は武蔵国の調を集積する場所であったため、搬入の邪魔となる鳥居がありません。
調神社からすぐ、浦和宿の入口です。
浦和宿
浦和宿は、日本橋を出て3番目の宿です。1843年時点で、宿の長さは1.167km、家数273軒、人口1230人、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠15兼の規模がありました。
江戸に近いため、旅籠や宿の規模も小さめです。
浦和道路元標
大正11年に設置され、今あるものは昭和57年に復元されたものです。
🐥玉蔵院
街道を左手に入ると玉蔵院があります。境内に猫がいました。お昼寝中です。
あと、写真は撮ってないですが、玉蔵院では駐車禁止と書かれた黄色いテープが至る所に貼ってありました。周辺が市街地で駐車場がない寺は大変そうです。
街道に戻ると、久しぶりにパン屋がありました。
🥐パン屋14号 Where’s The Bakery?
クロワッサンを買いました。営業しているパン屋が久しぶりなので気を抜いて見過ごすところでした。
街道右側に現れるのは創業1844年ごろの蒲焼山﨑屋です。通り過ぎます。浦和もうなぎが名物でした。
脇本陣の前に浦和宿の説明看板があり、現在ロイヤルパインズホテルとなっているエリアが脇本陣です。脇本陣が見違えるほど立派になりました。
星野権兵衛家本陣跡
交差点を渡ってから左折し、ちょっと入ったところの仲町公園に星野権兵衛家本陣跡及び明治天皇が来たことを示す碑(明治天皇行在所趾)があります。
ひっそりと残ってる感じです。
浦和御殿跡
また、街道から一本入ったところにある常磐公園には、徳川家康が鷹狩りに来た時に使った浦和御殿があります。
慈恵稲荷神社
常盤公園から北に少し行ったところに慈恵稲荷神社があります。細長い参道を車が塞いでいて、参道も半分駐車場みたいになっていました。
謎です。
旧中山道さんぽは、だんだんと寺と神社巡りをしているような錯覚に陥ります。実際、中山道で開発が進んだエリアで残っているものはだいたい神社と寺ですね。
浦和宿の遺構も正直、本陣の場所が公園になっているくらいです。
でも、今の建物を観察すると、宿場だった痕跡を見つけることができます。
中山道に対して細長い敷地に建っている建物が複数あるはずです。
浦和では、その結果とも言える極端な例として、超近接するマンションを見つけました。
🐥超近接マンション
一般的には目の前に建物が立たない道路沿いにバルコニーを設けるのが普通です。でも、これらのマンションは敷地が細長いため、南向きに設けました。
結果、推測ですが、まさに目の前に新しいマンションができてしまったようで、バルコニーからたった数メートル先が目の前のマンションの廊下になっています。
きつそう。
こんな事態を避けるため、都市計画法において、日影規制といった規制があります。
簡単に言えば、新しい建物が建つことで、背後にある建物に住む人たちがずっと日陰で過ごすのはきついので、日陰になる時間が一定時間におさまるように、新しい建物の高さや形状を規制するルールです。
ただし、すべての地域にこの規制は適用されません。適用されるかは役所が決めたエリア分け(用途地域)によります。
そして、今回のマンションがある地域は、まさに規制が適用されない商業地域にエリア分けされます。
商業地域とは、主として商業などの利便を促進する地域です。
平たくいえば、店舗をたくさん集めて発展させたい地域であり、住む場所ではないので日影規制は不要です。
敷地の境界ギリギリまで建物を建て、背後の建物が全て日陰になろうと問題ありません。
銀座とか、ぴっちぴちにビルが建ち並んでますよね。店内に入れば、窓なんて横にはないはずです。あの建物の建て方が可能な地域ということになります。
商業地域は、基本的に高い建物が立ちやすい地域でもあり、その建てやすさが良好な居住環境の維持とは相容れません。
従って、住む場所を決める場合、この「用途地域」には注意が必要です。
このような宿場の痕跡である「道路に面して細長い敷地」は、マンションに限らず、オフィスビルや駐車場でも多く見かけます。
そんな視点で街を見ても面白いです。
さて、浦和宿を北上し続けると、だんだんと人通りが減り、越谷浦和バイパスをくぐったあたりでほとんど高層マンションが見当たらなくなり、街の雰囲気が変わります。
この辺りで浦和宿は終わったようです。
🐥浦和と名のつく駅の数が多い理由
話はややそれますが、浦和は浦和の名前を冠する駅がたくさんあります。
JRの駅であれば浦和駅、北浦和駅、南浦和駅、東浦和駅、西浦和駅、武蔵浦和駅、中浦和駅の合計7駅です。
これはなぜか。
それは、鉄道が引かれるまではこの地域に村がなかったからです。
村があれば、その村名が地名になり、駅名になります。
何もなかった場所に、鉄道が敷かれた場合、村が発生する間もなく、駅がどんどん設置されます。浦和と名のつく駅名の多さは、近代になってから浦和が発展したということの証左です。
同じ例が千葉市ですね。JRの駅で千葉、東千葉、西千葉、本千葉、千葉みなとの5駅あります。
日本の都市は無個性、同じように見えますが、実は道路や鉄道という年の骨格、行政機関の配置などに各地の歴史と個性が反映されています。
この話は各県庁所在地の明治以降の成り立ちを整理している、『県都物語 47都心空間の近代を歩く』(西村幸夫、有斐閣)で知りました。おすすめの本です。
なんだかんだ長くなりました。
次回、03浦和宿〜04大宮宿に続きます。