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観葉植物に倫理の教科書を読み聞かせてあげることの意味
観葉植物のポトスを育てています。
大事に育てています。
すくすく育っています。
さて、昨日思いついたのが、そのポトスに「倫理の教科書」を読み聞かせる時間をつくろう、という発想。
さっそく、昨日から読み聞かせを始めました。
使用するテキストは「山川のもう一度読む倫理の教科書」。
どんな意味があるの?と訝しく思う方もいると思います。
実は大した意味はありません。
ただ、観葉植物に倫理の教科書を読み聞かせることに僕自身が見出した意味を少し書きます。
第一に、一人で音読をしてもあまり張り合いがないことは多々ある。
かと言って誰かを時間的に拘束して読み聞かせるのも容易ではない。
相手には相手の時間や都合があるし、小学生の宿題ならともかく、大人の音読にそんなに快く毎回付き合ってくれる人はあまりいない。
けれど、植物ならじっと耳を傾けてくれる。
そんな気がしているだけかもしれないけれど、植物に読み聞かせるをするのは、案外いい考えだと思っている。
第二に、倫理の教科書だということがポイント。
世界の成り立ちや人類の総合的な思索や足跡、哲学者や思想家のことについて植物に読み聞かせてあげると、なんだか本当に真剣に聞いてくれているような感じがするから不思議だ。
当然、人間の歴史上の愚行や人権の獲得など、壮絶な苦闘の末に得た尊い勝利や尊い思想についても書かれている。
植物にとってそうした人類の総合的な姿や営み、叡知、歴史的な思索や足跡はどのように映るだろう。
思考実験に過ぎないが、総合的にみて、ポトスは人類という生き物を愚かだと思うだろうか。
それとも、賢明だと思うだろうか。
実際は、その両方だと思うだろうか。
あるいは、植物のほうが、人間よりも高等な生き物だと思うだろうか。
そして、倫理のテキストを読み終わった後に、ポトスの世界観はどのように変わるだろうか。それに思いを馳せるだけでも大きな意味がある。
ポトスも教育を受けたがっているかもしれない。
第三に、ポトスとの時間を大切にできる。
倫理の教科書を読み聞かせてあげれば、ポトスと充実した時間を共に過ごせる。
孤独感が減るかもしれない。
人間同士がつながり過ぎた、孤独が課題となっているこの時代に、ポトスと心を通わせることで、心が安定するような気もする。
植物の知性について考えるよい機会になるかもしれない。
ポトスは倫理の教科書を理解できるだろうか。
理解できないと決めつける理由を僕は知らない。
たとえ理解できないとしても、読み聞かせることには計り知れない価値があると考える。
実際にやってみて、植物のそばで教科書を読み聞かせると落ち着きながら音読ができていい。
次からは世界史の教科書を読み聞かせてあげるのも一案としてある。