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偉大な観察力を復権することの意味
現代では、身につけておいた方がいいものとして、いろいろなスキルが俎上に上がる。
データサイエンス、論理的思考、計算力、デジタルスキル、プログラミングなどなど。
でも、真っ先に「観察力」が上がることは、意外にない気がする。
私は、なぜか、現代の高度情報化社会が要請する数多のスキルよりも、「観察力」の意義を復権することが、個人的に大事だと思っている。
もちろん、私は何かの専門家ではなく、一素人なので、学術研究や経験をもとにそう考えているわけではない。
だから、正確には、私が個人的に重要だと思っている、鍛えたいスキルが、「観察力」だ。
ふと思う。
現代社会には、「コンピューター化」と「脱自然化」が大きな背景となって進行しているのではないか、と。
一人一台、スマートフォンを持つことが、一般的になっている。
「スマホ社会」という言葉もあるくらいだ。
スマートフォンの画面をじーっと見つめている人が実に多い。
私も、ときどきはその一人だったりする。
で、長時間見つめていると、なんだか世界が狭くなり、五感が鈍る感じがあるのである。
スマートフォンで、世界中の写真や風景、情報にアクセスする。
でも、それをすると、なんだかますます世界が縮小する。
結局、スマートフォンで何を見ているのだろうか。
そこに移る映像や画像や文章は、外山滋比古先生の言葉を借りれば、第二次現実だ。
この世界というナマの現実(第一次現実)を誰かが作為的に加工したものに過ぎない。
加工されているものを通して、私たちは、第一次現実を再構築する。
そうして再構築された第二次現実は、不自然に加工されている場合が多く、なんだか歪んでいる。
書物だったら、対話ができる。
友人や家族などとだって会って対話ができる。
そこには、質問をして、答えて、理解するプロセス、対話が生まれる。
そして、後者の場合は、加えて「観察」が働く。
「観察」は第一次現実に、五感をフルに使って、直接アクセスする営みだ。
「観察」には、非言語的コミュニケーションも含まれる。
「観察」は「対話」とセットである。
「観察」してわからないことを、「対話」で補強し、確認する。
「対話」のための「観察」だとも、「観察」のための「対話」だとも捉えられる。
「第一次現実」に直接アクセスする行為、「観察」には、注意が自然に向く。
そこには自分の意図や方向性しかない。
削った注意もすぐに回復する気がする。
それはなぜだろうか。
「観察」には、全体を認識した上で、一点を見るという性質があるからだ。
一点を見ながらも、その一点を包む境界との断絶が、ない。
部分を、全体との関係性で捉えられる。
星空を見るとき、われわれは、星座や特定の星を観察していても、宇宙全体の、一部分を成す対象を観察していることがわかっている。
植物を観察していても、その植物の一部分が、植物全体の一部分だということがわかる。植物から目を離せば、他の植物もあるし、周りの景色も見える。地球や宇宙という全体に生きていることがわかる。
人と会って観察すれば、その人が、観察してわかることよりも、多くのことを秘めていることがわかっている。
だから、「対話」をする。
シャーロック・ホームズなら、観察してわかることの方が、少し多い場合もあるのかもしれないけれど。
しかし、スマートフォンで見る世界は、そうではない。実際よりも、縮小され、加工された閉じた(クローズド)の現実だ。
「観察」をするときには、五感をフルに使う。
匂いを嗅ぎ、目で見て、息を吸い、耳を澄ませる。
だから、五感や身体的感覚が研ぎ澄まされる。
それは石器時代から、祖先がやっていたことだ。
その頃から、われわれの身体は変わっていないという。
第一次現実に直接アクセスすると、身体を動かすから、脳機能も向上するし、体が喜んでいるのがわかる。
「観察」は、身体全体を使うのである。
よって、身体性に即している。
コンピューターには、身体性がない。
少なくとも、目しか使わない。
だから、目だけが疲れる。
かと思ったら、身体のすべてを使うよりも、よほど疲れる。
われわれは、電話をする。チャットをする。テレビを見る。
SNSをする。電子機器でコミュニケーションをする。
だが、コンピューターを介して伝達するのは、なんだかコンピューター相手に会話しているみたいだ。
まとめてみる。
われわれ人間は、「脱自然化」と「コンピューター化」の流れで「身体性」を失いつつあるのかもしれない。それに伴い「五感」が衰える。
そうなると、「五感」と「身体性」による「観察力」が衰える。
もしかしたら、人間はコンピューターのスキルを獲得し、コンピューターの使用に長ける代わりに、「観察力」が衰えつつあるのかもしれない。
ここまで書いてきたのは、はじめに書いたように私自身が、衰えた「観察力」を取り戻したいという思いからきている。
「観察力」を失う前に行動を起こしたい。
コンピューターのスクリーンをあまりに見続けて作業すると、心がすり減る。
ジェームズ・ラブロックは、それを巣で糞を転がし、こね続けるシロアリに重ねた。
それほど、異様な行動に思えたということだろう。
だが、運動し、読書し、対話し、会話し、睡眠し、体を動かして遊び、手で書き、歩き、自然に浸りといった、身体的活動をすると、心と体が喜ぶ。
コンピューター化する社会で、自分のすべてをコンピューターに委ねてはいけない気がする。
「知的生活」においても、心をよい状態に保つためにも、そうした身体的活動をし、「観察力」を維持する必要がある。
スクリーンを見る代わりに、話しかけよう。
スクリーンを介さず、他者と本気で対話しよう。
スクリーンを見る時間を減らして散歩しよう。
私もこれを少しずつ心がけたい。
終。