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ロールモデルを持つことの意味・Ⅱ
前回の記事で、「ロールモデルを持つことの意味」と題する記事を書きました。その記事のコメントで、ロールモデルという考え方が、「小賢しい」とのご指摘を頂きました。
前回の記事は短い文章で、なかなか「ロールモデル」の真意が伝わらなかったように思えるので、私なりにできる限り説明をしてみたいと思います。
老子の思想にロールモデルという考え方がないのが本当だとしても、ロールモデルという考え方自体が「小賢しい」とするのは、事実ではなく、個人的な価値観を表明されたというように思います。
なぜなら、ロールモデルという考え方自体は古くからあり、歴史的な文脈の上に機能してきたからです。
ニューヨーク市立大学教授で、哲学者のマッシモ・ピリーウチ博士の次のストア哲学に関するTED講演があります。
その講演では、ロールモデルという考え方の紹介とともに、ストア哲学におけるロールモデルの考え方を実際に日常生活や人生において実践することの意義が語られています。
ロールモデルという考え方は、決してロールモデルに選んだ人物に対し、敬意を払わない行為ではありません。
むしろその逆です。ロールモデルを実践することによって、社会や家庭など、各面においてできる限り賢明な役割を果たそうとする努力の行為自体に価値をおくこと意味があります。
つまり、完璧な状態を目指そうとするわけでないのです。
そして、これは重要な点ですが、ロールモデルになる人物であっても、完璧な人間ではありません。
そもそも完璧な人間などいないからです。
マッシモ・ピリーウチ博士が、著書で述べています。古代ローマでロールモデルに選ばれ、高潔だとされた政治家、小カトーは、現代の基準で言えば、ロールモデルにはならない、しかし、当時の文化や時代の尺度に照らせば、間違いなくロールモデルになる、と。
そして、実は仏教徒においてロールモデルは、ブッダです。
つまり、ロールモデルという考え方自体は、仏教にもあります。
それに、日本でも、長らく孔子の古典が読まれてきました。
ロールモデルという言葉こそ使っていませんが、ロールモデルという考え方自体は、古今東西にあると思います。
もしかしたらそれを小賢しいとお感じになるのは、ブッダが仏教において崇拝の対象になっているという思いがあるのかもしれませんね。
しかし、実は、仏教においてブッダは神ではありません。
ラーフラの著書によれば、仏教においては、誰しもが決意と努力次第でブッダになる可能性がある、と考えています。
つまり、ブッダをロールモデルと捉える仏教においてブッダとは、歴史的実在者、ブッダを目指すことではなく、ブッダという状態を目指すことが核心にあります。
そして、忘れてはならないのは、キリスト教において、ロールモデルはキリストだという点です。
この点は私自身、マッシモ・ピリーウチ博士の著書ではじめて知りました。
キリスト教において、キリストは善行のモデルです。
ピリーウチによれば、キリストがロールモデルであれば水準が高すぎて模倣が難しい。
その一方で、ストア哲学は現実的で、人間心理をよく理解している、と。
テーラワーダ仏教長老のアルボムッレ・スマナサーラ長老は著書、『怒らないこと2』大和書房において、神でさえ不完全であり、万物は不完全だと述べています。
ロールモデルとは、不完全な人間がいかに少しずつでも進歩、というより成長し、人生における様々な役割において、いかに最善を尽くすかという問いに対する一つの答えと言えます。
ワールポラ・ラーフラ著・今枝由朗訳、『ブッダが説いたこと』(岩波書店)は、仏教に造詣はないけれども、ブッダが本当に何を説いたかを知ろうとする、教育があり、知性のある一般読者に向けて書かれていると前書きにあります。
最後に、私自身は、広義の仏教徒だとも捉えられます。頻繁にではないにしろ、お寺に行くことはありますし、仏教自体には、育ちにおける土壌があります。お墓参りにも行きます。
その点は誤解を生んでしまったかもしれません。
そして、わざわざ公開して言う必要はなかったかもしれません。
以上のことを総合しますと、ロールモデルという考え方自体が、小賢しいとは必ずしも思いません。
ただ、私自身、仏教について知識が豊富だというわけではありません。
ラーフラの著書は読みましたが、完全に素人、一般人です。
なので、ロールモデルの説明には、その点の不備があるかもしれない。
それに、以下の本しか文献を参照していません。
私は研究者ではなく、そんなにこのテーマを研究や学習するほどの時間や余裕もないからです。
執筆した作品において、疑問点や矛盾、誤りがあれば、再考して下書きに戻しています。
ご清聴ありがとうございました。
今回の記事で言及した本。