ゆめじゅうや
実は誕生日が2回あります
どうも海砂利水魚エタニティです
今回書くのは日記です
といっても毎回日記みたいなもんなんですけどね
私、今年の春から浪人生という肩書を得、朝起きては勉強をして、一日が終わるという日々をかれこれ60回くらい繰り返しております。
死ぬほど退屈ですし、苦痛です
小さい頃に読んだファイアパンチという漫画の不死者が退屈な日々に嫌気が差して自決を計るシーンがあるのですが、小さい頃は「どうしてヒマなのが死にたくなるのに繋がるのだろう スプラトゥーンでもすればいいのに」とテキトーなことを考えてましたが、刺激のない日々がどれほど退屈かということを最近 「理解って」しまいました。
さて、刺激のなく退屈な日々を過ごしている訳ですが 「息抜き」という名の新しい刺激を求めて 浪人生活が始まってすぐに絵を描きはじめました。といっても、練習のクロッキーとか好きな絵を写すぐらいの趣味でしかないのですが。
基本的には「描き写す」ことしかしてないのですが、つい最近「自分が描きたいもの描いてみよ〜」と思いまして、まっさらな白紙に思うままの世界を描こうとしたのですが
これがすごく難しい。
ふと、夏目漱石の夢十夜を思い出しました
高校の現代文の授業で習った第六夜の内容と重なりました
第六夜の内容としては、彫刻家の運慶が仁王を彫っている所を見て「どうして迷いなく仁王像を作れるのだろう」と疑問に思うと「あれは作ってるんじゃなくって、木の中に埋まってる仁王を掘り出してるんだよ 土の中から石を掘り出すようなもんだから間違うはずないのさ」
と男から聞く。
試してみたくなった主人公は早速家へ帰って薪に仏像を彫ろうとするのだが、結局は彫れない
「俺の薪には仏像が埋まってないから彫れないんだな」
という内容で話は終わる。
ざっくりとあらすじはこんな感じ。
当時の私は「とんでもない責任転嫁の方法だなぁ」ぐらいの感想でしたが、白紙に向かって絵を描くとき、「この紙には絵が埋まってないから描けないんだな」と思うと妙に納得がいってしまって
太宰治はこういう気持ちだったんだなぁとようやく理解できた次第です