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好き上手こそ(の)もののなれ

まだNOTEを始めてから、3週間程度ですが。なんだか今回の並べ替えは面白い匂いがプンプンしております!更に、今回はじめて「接続詞の追加」「当て字」をしております。故に、いつも以上にまとまりのない駄文となりますことをお許しください。

今回も、元の言葉自体は皆さまもよくご存知のことと思います。意味も無理なく自然に理解できるといいますか。「いや、当たり前だろ」あるいは、「これこそ理想のかたちだよね」という感想も出てくると思います。
私自身、社会人となって15年程度?経ちましたが、この命題にはいつも悩まされております。

「好きと得意とを両立させることはできるのか?」

多くの方は、それぞれの考えがあり、事情があり、主義があり、願いがあり…結果として「好きだけど不得意なもの」「嫌い(ないし好きではない)だけど得意なもの」のいずれかを選択して日々を過ごしておられるのだと思います。

ですが、現在の私は上記いずれにも属さない状況でもがいております。ずばり「嫌いだし苦手なもの」にぶち当たっております(涙)
正確に言えば、「嫌いだけど得意なもの」と思っていたのだが、やってみたら苦手だったということですが。そのおかげで、今の状況から撤退することを、割と真剣に考えていたりします…。
今は考え方、というか生き方の多様性がどんどん広まり、認められてきているので、撤退が悪であるという論調は勢いを無くしてますし。「好きだし得意なもの」で自分らしく生きるチャンスが多く転がっているのですがね。
かくいう私自身が保守的、古臭くダサい生き方を美徳と感じる性分なのもあり。決断を下すのは慎重であるべきかな、と思っております。

今更ですが、上記の具体例は「仕事」についてですが、今回の考察はそれに留まらず、広く人生観全体を対象とできます。実際、趣味嗜好の分野においては私も「好きだし上手にやれている」と思える時もありますよ!

話を本筋に戻しましょうか。(ちなみに、この表現の慣用句として『閑話休題』がありますが、この言葉も並べ替えて『休話閑題』として見てみると、考察のし甲斐がありそうだと思います。)
さて、元の言葉ですが、ざっくり言えば「好きな物事は早く上達するし、自然に得意になるよね」ということですね。
物事を上達させるには相応の努力が求められますが、努力が苦にならない、というより楽しくてやってるだけだから(少なくとも本人にとっては)努力とすら思っていないですかね。好きだからやる⇒やるから上手くなる⇒上手くなると楽しい⇒より好きになる⇒更にやる⇒… と、わざわざ解説するまでもなく好循環が続きますね。うん、理にかなっている。やはり私も、今の仕事については、発想を変えることを前向きに検討すべきかもしれません。

ところで、物事を「好きになる」そもそもの条件とかトリガーとかって、あるのでしょうか?おおよそ思いつくのは「遺伝」「環境(家業とか友人の影響とか)」「直感」「順応」くらいでしょうかね。「道徳」とかもあるかな。『好きとは何か』、についての考察は学者先生の仕事ですね(笑)

何はともあれ、何かしらの条件を満たしてある物事を「好きだ」と認識するのでしょうが。好きの質と量って、結構重要な気がします。
「アレも好き、コレも好き」「Aはいつでも大好き、Bは仲の良い知り合い」例えとして適切かはさておき、物事の好きは主観的で絶対的で、固定的ですね。質も量もバラバラです。それ自体は考える必要はないかな。
私が気になった並べ替えは「好き上手」という文言で、「好きが器用」と言い換えると尚面白いかと。物事の好きが客観的で相対的で、流動的。

…すみません、好きの観念(主観⇔客観、絶対⇔相対、固定⇔流動)についてはもっとしっかり議論すべき内容ですね。現時点での私の考え、というかむりやりな当てはめでしかないです。「好き上手」という概念に囚われて視野狭窄となっております、申し訳ございません。

上記の愚考、あえて見逃していただけたと思ったうえで、続けます。
物事に対しての好きを、自分で自在にコントロールできるのならば。

Aは大好きだからとても得意に。Bはほどほどに好きだからほどほどに得意に。Cは今は気分じゃないから、後で好きになろう。
なんだか至極当たり前のことを言っているような気もしますし、とても難しいことをやっている気もします。自分の(好きという)気分のコントロールで、あらゆる物事をマスターできるってことですから。

並べ替えの後半「もののなれ」。これに漢字を当てて、「ものの成れ」…
成れの果て、なんて言葉もありますが、気分のコントロールができるのならば、成れの果て(=成果物)をも自在に操ることができるということなのか。圧倒的な完成度に仕上げることも、あえて駄作で済ませることもできる。増してや、あとでその駄作をほどほどの良作辺りに作り替えたり、気分で傑作を凡作にランクダウンさせることもできるのか。

そうなると、世の中に存在する全ての物事。その価値とかって、どうなるのでしょうか。『価値とは何か』、という学者先生の仕事自体、なくなってしまいかねませんね。

極端な例となってしまいましたが、「好き上手」という概念は、都合の良い空想くらいに留めておいた方がよいのかもしれない。むしろだからこそ、「好き上手こそ(の)」なわけで。好き上手というイレギュラー、と言えばよいのかな。
「好き下手」「好きが不器用」こそ、人間として望ましいというか、自然というか。芸術も美術も、学問もスポーツも、人間関係も。下手であるが故の均衡、不器用故の調和。平和で穏やかに過ごせる気がします。

そんな感じで、今回の考察でした。いかがでしたでしょうか。無理矢理な論理、極端な事例、独りよがりの妄想。自己嫌悪・自罰思考はいくらでもできるのですが、素人なりに興味深く考えることができました。考えることは、やっぱり楽しいですね。
そして、今までの私と違うのはこうやって「出来はともかく、発信してみる」ことに挑戦できている、ということです。自分が感じたことを、とりあえず表に出す。多くの人が意識せずに行っていることを、私は意識しないと実行することができません。しかし、それをやれているなと、自身を楽しめてきています。いつになくアグレッシブな私に、びっくらぽんのポンタカードですよ。

いつまで続くのかは考えずに、これからも「考えたいことを考えて、書き起こす」という遊びを、続けていきたいと思います。


『好きこそものの上手なれ』


#言葉遊び #並べ替え #接続詞 #当て字 #随筆 #考察
#だらだら

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