地理Bな人々(34)SHIZUKU③ マドラスチェック・鳥取と島根
「フライドポテト大好きの私としては,すごく勉強になりました。」
と滴ちゃんは言った。
僕は初めて一人で彼女の病室を訪れていた。
日差しが強く,カーテンが黄色に輝いていた。
「それと,確かに『飾り窓』の記述はインパクトありました。全然知らないことばっかりで。」
「まあ,そうだよね。」
「ナオミ先生は,飾り窓みたいなところへは行ったことあるんですか。」
「え,無いよ。もちろん。」
「どうして?」
「どうしてって言われても・・・」
「行きたいとは思わない?」
「思わないよ。」
「なぜ?」
「なぜって・・・」
「だって,綺麗でグラマーな女の子が下着姿でウィンクしてくるんでしょ。私が男だったら,ちょっと覗いてみたい気もするなあ。」
「でもさ,例えば,僕が“昨日ちょっと飾り窓に寄って遊んできたんだ”って言ったとしたらどう思う?」
「あ,それはちょっと嫌かも。」
際どい方向に話が行ってしまいそうだったので,さっそく数学の勉強を始めた。
理系志望の彼女は,数学は得意でしたと僕が誇らしく宣言した事が恥ずかしくなるくらい優秀だった。
彼女は最近は疲労を感じやすくなる症状が続いていて,そんな時には目を閉じてゆっくり深呼吸をすることを予め決めておいたのだけれど,そんな時間はほとんど必要がなかった。
用意しておいた問題をアッという間に解き終えてしまった。
「先生はいつもチェックのシャツ着てますね。チェックが好き?」
「え,あんまり意識してないけど,そういえばそうかもしれない。」
「これは何ていうチェック?」
「これはマドラスチェック。」
「マドラス?」
「ベンガル湾※1に面したインド東岸の街の名前だよ。今はチェンナイ※2って呼ばれてるんだ。17世紀にイギリスの東インド会社の拠点となった街なんだ。チェック柄はタータンチェックとかグレンチェックとかイギリスの地名が由来※3になっているものが多いけれど,これはインドなんだよね。まあ,インドは綿花の原産地のデカン高原※4があるし,イギリスの植民地だった※5こともあるしね。」
「またまたミニ知識。」
「うんちく野郎なのでね,僕は。」とおどけて敬礼をした。
「地名が由来になっている名前ってたくさんあるんですか?」
「あるよ,たくさん。コーヒー豆の種類なんかはまさにそうだよね。ブラジルやグアテマラ※6はズバリ国名だし,キリマンジャロもブルーマウンテンもモカも全部地名※7だよ。」
時間が余ったので,この前ふと思い出した「OS地球カレンダー」の話をした。金太郎飴みたいな日々を過ごしているせいなのか,好奇心のアンテナが人一倍強くなっている彼女は,その話にも興味津々だった。
次はその話をしようね,と僕が言うと,
「ナオミ先生には素敵な先生がたくさんいたんですね。」と彼女は言った。
「滴ちゃんには,好きな先生はいなかった?」
「うーん,中学の時好きだったのは理科の山形先生と国語の秋田先生。」
「何だか県名みたいだね。」
「そう,それで,面白いのが,山形先生は岡山県出身で,秋田先生は鳥取県出身なんです。」
「ますますややこしいよ。」
「二人はいつも地元ネタで対立していて,よく授業でも話すものだから,私達の学年はこの2人の出身地だけはみんな知っているんです。これがすごく便利なんです。」
「どういうこと?」
「山形のすぐ上が秋田県,岡山のすぐ上が鳥取県になっているでしょ。」
「うん。」
「だから,私は山形先生が秋田先生をおんぶしているところを想像するんです。」
「はあ?」
「これは,岡山県が鳥取県をおんぶしている,という図に変換できるので,岡山県のすぐ北側が鳥取県である,と簡単に記憶することができるんです。間違えやすい鳥取県の位置を覚えられる,っていうわけです。」
――鳥取県と島根県の位置関係。
47都道府県のテストで一番正答率が低いっていう話をどこかで聞いたことがある。
僕は笑って,
「それは滴ちゃんの同級生だけに与えられた特権的な覚え方だね。」と言った。
イラストが得意な男子が,ディフォルメされた2人の先生と「岡山の北が鳥取です!※8」というロゴを入れたコミカルな絵を画用紙に書いて教室の後ろに貼り付けたことで,彼女のクラスでは鳥取県と島根県の位置を間違える生徒はいなくなった,ということだった。
日が傾きかけていた。
病院の夕食時間は早い。僕は帰り支度を始めた。
「ノート,まだ借りていて良いですか。まだ全部読んでなくて。」
「全然構わないよ。慌てて読む必要ないよ。言ってくれればいつでも新しいのを持ってくるよ。」
「ありがとうございます。」
「あと,さっきの話のついでだけど,僕も岡山出身だよ。」
「そうなんですか?」
「うん。正確には,徳島県で生まれて,ちょっとだけ香川県に住んで,小6から中3までが広島で,高校時代は岡山なんだ。瀬戸内周辺をうろうろしていたんだ。」
「そうだったんですね。ということはナオミ先生は山形先生,ということか・・・。」
「そこはタグ付けしなくても良いと思うよ。」
そう言って2人で大笑いして初めての授業を終えた。
帰り道,彼女に話したいことが次から次へと頭の中に浮かんできた。山麓の湧水のように。
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※1 ベンガル湾
インド洋の北部,インド半島の東部に広がる海域。ベンガル湾の奥に位置するバングラデシュ(人口1.6億人)は「ベンガル人の国」という意味で,公用語はベンガリー語である。「ベンガル湾に面したベンガリー語を話すベンガル人の国バングラデシュ」のように音の繋がりに注意すると地名をまとめて記憶することができる。
※2 チェンナイ
都市名は,16世紀後半にこの地にあった王国を他国の侵略から守った人名に由来する。インドではムンバイ・コルカタ・デリーに次ぐ大都市圏を形成する港湾都市で「南インドの玄関」と呼ばれている。東海岸に位置するので,7~8月頃の南西モンスーンの時期は風下側にあたるため降水量はさほど多くはない。冬の北東モンスーンがベンガル湾を越えてやってくる11月頃が最多雨となる。インドの5大言語のうちの1つであるタミール語が広く用いられている。17世紀にイギリスの支配下となって以降は「マドラス」と呼ばれてきたが,1996年に正式に「チェンナイ」に改称された。植民地支配に由来する地名が現地での呼び名に改称される例は近年増加しており,インドではボンベイは「ムンバイ」に,カルカッタは「コルカタ」に正式に変更された。他の途上国の大都市と同様に郊外にスラムが拡大するなどの都市問題を抱えている。
※3 イギリスの地名が由来
「アーガイル」や「グレン」はイギリスの北部スコットランドの地名(諸説あり),「タータン」や「タッターソール」は地名ではないが,イギリスの貴族や人名が由来となっているものが多い。
※4 デカン高原
インド半島の大部分を占める日本の5倍ほどの面積を持つほぼ平坦な台地状の高原。大半の地域は標高300~600mほどである。東西に東ガーツ山脈,西ガーツ山脈が走る。中生代の終わりにマグマが噴出して形成された溶岩台地であり,玄武岩が風化して形成されたレグール土と呼ばれる肥沃な土壌が広がる。綿花の原産地であるが,高原上ではしばしば灌漑用水が不足するため,多くのため池が分布している。南部のカルナータカ州の州都バンガロール(ベンガルール)はインドのシリコンバレーともよばれるソフト産業の一大集積地として有名。デカンはサンスクリット語で「南」を意味する語に由来する。
※5 イギリスの植民地だった
17世紀前半,香辛料を求めて東南アジアへ進出を図ったイギリスの東インド会社は,オランダとの勢力争いに敗れ,インドへの進出を推し進め,1639年チェンナイに進出し,その後勢力範囲を広げていった。インドがイギリスから独立したのは第二次大戦後の1947年である。
※6 グアテマラ共和国
メキシコの南,南米大陸のすぐ北側に位置する中米諸国の1つ。面積10.8万㎢?/人口1700万人)。紀元前からマヤ文明の栄えた地であり,現在もマヤ系先住民が人口の4割ほどを占め,20以上ある先住民の言語が公式に認められている。
※7 コーヒー豆の種類/地名
キリマンジャロはアフリカ最高峰の山(標高5995m)でタンザニア(面積94.7万㎢/人口5940万人)にある。ブルーマウンテンはカリブ海の島国であるジャマイカ(面積10.8万㎢/人口1700万人)。モカはアラビア半島の南東部に位置するイエメン共和国(面積52.8万㎢/人口3000万人)にある港湾都市で,周辺の高原地帯で栽培されているコーヒー豆の重要な輸出港である。
※8 岡山の北が鳥取です
確かに都道府県の配置では,岡山県の北が鳥取県であるが,都市レベルでみると県庁所在地の鳥取から岡山へ一番速く移動するには,特急「スーパーはくと」に乗車し姫路駅(兵庫県)へ出て(所要約90分),新幹線で姫路から西方へ向かい岡山へ(所要26分)というルートが最短となる。なので鳥取の南は岡山ではなく姫路ということになる(どうでもいい話ですが・・・)。