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【たたかう民主主義】ドイツで学んだ社会的団結の方法
本日2025年2月23日の連邦議会選挙のために、ドイツ全土で社会運動の熱はピークに達しました。現在ドイツで午後4時ごろ、選挙の終わりまではあと2時間ありますが少しずつ結果が出始めています。キリスト教民主同盟(CDU)が優勢と見られます。
選挙1週間前のベルリンでは、主催者によると38,000人もの人がフンボルト大学近くのベーベル広場に集まり自由と民主主義の保護を訴え、連帯しました。ドイツのアクティビズムの告知サイト(DemokraTEAM)によると、ベルリンではこの前の週の日曜日のたった一日だけでも、10ヶ所もの地点で反ファシズム運動が行われたようです。
以下の文章は選挙の開票前に書いています。
選挙の結果如何に関わらず、人々の自由と民主主義への未来への叫びと、それを支える流動的な市民社会のしなやかさを一つの"文化”として、日本語で伝えることを目的として試み、ここに発信したいと思います。
ドイツは分断の真っ只中にある
2025年現在、右翼左翼の二極化が激しく進んでいます。2024年夏のEU選挙にて、右翼が人々の予想を上回る躍進したことをきっかけに、左翼の危機感は燃え上がるように増大しました。しかしそれ以来民意の右傾化は留まらず、殆どの政党が民意に合わせて右傾化の一途を辿らざるを得ない状況となりました。
環境政策もそうですが、今は主に、移民政策が対立軸を二分しています。キリスト教民主同盟(CDU)はドイツのメジャーな大衆政党として、長年メルケル氏の親EU/親移民政策の影響もあり中道右派とも言われていましたが、最近現CDUの党首フリードリヒ・メルツ氏が移民排斥を掲げる極右政党AfDとの結託(二次大戦以来のファイアーウォールの破壊=最大のタブー)を明確にしたことによりもはや「中道」と呼べるものはそこに存在しなくなりました。「CDUに投票する人は極右AfDに投票してるのと同じ」とまで言われています。
これに対し、移民の規制に反対する左派は「みんなでファシズムに対抗しよう」「私たちがファイアーウォールとなる」「Nie Wieder ist Jetzt(Never again is now)」などをスローガンに、頻繁にデモンストレーションを行っています。
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(みんなで一緒にファシズムに対抗しよう!)
車道を歩いて事前に決まっているシュプレヒコールを叫ぶ
政治的な動向に反応する瞬発力と、デモを組織する機動力はSNSの力もあって、本当に速いです。
私の街では、メルツ氏によって新しい移民規制の法案が可決されそうになりファイヤーウォールが破られたその当日、その日の夜には1200人*もの反対者がCDUの本部の前に集まり、事の重大さを訴えました。(*オスナブリュックのローカル新聞より)
たたかう民主主義
ドイツの社会的団結は、基本的な法体系にも由来しています。民主主義は民主主義でも、ナチス・ドイツ時代の反省から、日本の憲法とはまた違った形をしています。ドイツ基本法は西ドイツ時代に作られたもので、現在はドイツ連邦全土に適用されています。その最初の第一条の、第一文目を見てみましょう。
(1) Die Würde des Menschen ist unantastbar. Sie zu achten und zu schützen ist Verpflichtung aller staatlichen Gewalt
人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、保護することはすべての国家権力の義務である。
ドイツ連邦共和国 基本法 第一条(1949~)
人間の尊厳が全ての基本。人はみな自由と言えども、尊厳を踏み躙る侵略者の自由は認めない。
人々の自由を破壊するものには、言論の自由と権利を与えない。
これこそが、ドイツの民主主義・法体制がいわゆる「たたかう民主主義」(Streitbare Demokratie)と呼ばれる所以です。
(武力で闘う=Kampfenとは違い、Streiten=論争する、批判するみたいなニュアンスが込められる。)
実際に、不法移民の排除やLGBTQの権利縮小を試みる極右政党AfDの活動禁止は、今回多くの人によって求められ、賛否両論の激しい議論になりました。しかし結果的に禁止にはならず、アリス・ヴァイデル率いるAfDは今回の選挙でも躍進することが予想されます。
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AfDの選挙活動を囲い、止めさせようという目的のデモ。
アクティビストたちが見守る中シアターの前に基本法第一条第一文が掲げられた。
写真はオスナブリュックのローカル新聞のインスタより(@noz_de)
社会生活に浸透する、デモ文化
民主主義の持つ意味が日本と異なるように、平和の持つ意味も異なると感じます。
「無事」「何も起きないこと」が平和である日本に対し、ドイツの„Frieden”は言論の自由が当たり前にあって、人それぞれの自由を求める主義主張が公の場で議論可能であることを含むと思います。
必要に応じたデモは、人々にとって平和の大前提となり得るのです。大きなデモになると、たくさんのパトカー・警察がデモの周りを取り囲み、暴力に発展しないことを見守っています。この国の平和は、行動を起こした上での無事によって「勝ち取られる」ものでなければなりません。
そもそも、日常生活でも政治の話をよくするので、政治自体が生活の一部になっているというのもデモが盛んな理由の一つとしてあると思います。
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„Omas gegen Rechts"のプラカードと、
「ちがうよパトリック、ドイツのための選択肢(AfD)は絶対に選択肢ではないよ」書いてあるプラカード
@オスナブリュック
例えばドイツの各地に„Omas gegen Rechts"(=右翼に反対するおばあちゃんたち)という団体があります。戦後ドイツ生まれの第一世代、つまりナチの過去に対する社会運動の最盛期を担った68年世代が、21世紀に入っても社会のために活動しているという見方もできるでしょう。
社会運動のアクターはいつでも若者や学生のイメージが強いですが、デモの参加に年齢は関係ありません。
日曜日のデモには小さい子どもを連れて家族で参加している人もいます。小さい頃からデモに参加して、同じ政治的認識を持つ人たちと共に声を上げることを知っている子たちは、大人になっても活動に参加することをためらいいません。
そして、自ら何か特別なプロジェクトをやっていなくても「参加する」ことで誰もがアクティビストになれるという認識があります。
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大学の前で街中の人が"二度と繰り返さない"ことを誓った。
「明日行くよね?」「行こっかな〜」みたいなノリで集まる。
隣の遊具広場から子どもたちの笑い声が聞こえる
@オスナブリュック
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スローガンは"#Say Their Names”、犠牲者の名前を叫ぶ。
事件の真相と説明責任を巡り、5年が経っても議論が続いている。
@ベルリン
ドイツでSolidarity (団結、連帯)のしかたを学ぶ
法体系や、平和の定義以外に、何が彼らを団結させるのでしょうか。
団結を求める人たちは、分断に対抗しています。彼らも住宅の不足、職不足、生活費の値上げなど生活においてたくさんの問題があることはよく理解しています。それらの解決のために、移民や失業者に目を向けさせ、ヘイトや暴力を強めるといった、短絡的な方法を取ることに反対しているのです。これらの方法は、社会の分断を図る典型的なポピュリズムの手口です。人種主義、ヘイトや暴力を煽る政治の危険性は歴史が裏付けています。
ドイツの労働組合やそれによるストライキが盛んなことは、非常に有名だと思います。人々が困窮し、助けを必要としているときには、一人で苦しむのではなく、社会による支えが必要です。「平等」を求める際には、社会構造に対する人の脆弱性に目を向けざるを得ません。そして、「人と違うこと」「人より弱いこと」を想定に入れた、社会との相互依存的な関係を認めなければいけません。そのためには個人主義を捨て去って、自分の境界を社会的範疇として理解し、政治や制度に落とし込んでいくことが必要です。
他の人々のためにそこにいて、彼らを助け支えること、あるいは支えられること、それこそが連帯(Solidarity/Solidarität)という言葉の意味です。
「何が彼らを団結させるか?」の問いに答えるとすれば、「単位」としての自分を手放し「社会との相互依存を平等の前提として受け入れる」ことが当たり前にできるということ、そう表現したいと思います。
…ただ、これはドイツの社会や文化に見られる例であり、世界に数ある枠組みの一つに過ぎません。そして、全員がこのような社会民主主義的な心構えで生活している訳ではありません。私の周りのドイツのアクティビストたちも、このフレームを他の国に当てはめたりヨーロッパ中心的な考え方を押し付けようとはしません。これを法体系の異なる日本社会に適用する必要もありません。
しかし、この文化としての側面である「たたかう民主主義」から、私たちが学べることは多くあると感じます。
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38,000人*のデモ参加者が平和を訴える。
気温はマイナス、冷たくて強い風が吹く。
(*@demokrateam)
一人で大きな社会と闘っている人たちへ、
私たちがどのようなマインドで行動しているかを知ってください。一人一人のそれは、決して崇高で大きな力強いものではなく、人間1人分のちっぽけな力にすぎません。しかし、覆せないほどの大きな権力を相手にするために、団結して声をあげるのには、人間1人分の力で十分です。
SNSを見ていると影響力のバイアスがかかりがちで、多く拡散されている人や知名度・権力のある人の発言にどれほどの影響力があるのだろうと恐れることもあります。しかし、結局声の大きい人も、SNSの外では誰もがちっぽけで人間1人分以上の力は持っていません。ドイツのアクティビストたちは、個人の力が弱くても大人数で団結している方が最後に勝つと信じて人道に連帯を示し、非暴力に基づいて行動しています。
「一人で闘っているのではない」と感じることで、自分の信念を肯定して貫くための強い自信が生まれます。
そして、集団の社会運動で社会を少しずつ変えていくことができるということ、それは近代ドイツの歴史そのものが証明しています。
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行動し、参加することで「社会に対して声をあげている自分は、一人ぼっちではない」ということを知ってください。どんな形でもいいので、賛同し、連帯し、あるいは拡散してください。
世界のどこかに同じ考えを持ってたたかう人たちが必ずいるので、探してください。
一人の人間が一人分の力で行動し、それが集まり社会を変える大きな力となる。
無理のない範囲で、緩やかな団結を。
これが、私がドイツで学んだ社会的団結の方法です。