自己肯定感に世代は関係あるのか? ③
私は理不尽が嫌いです。
ご飯を食べている時、横でタバコを吸われると怒りを覚えます。「将来のためになる」と言われて興味のないものを無理やり学ばされるのもパスです。もう十分耐えてきましたし。そして、おそらく多くの成人の方々もそうでしょう。わざわざ理不尽を好きになる人はいません。
これは成人に至らない人たちも同じなわけです。だからなぜ大人が嫌がるものを押し付けるのだろうかと。子供のクリエイティビティを無駄な遊びとして、軽視するのはもう時代錯誤だとさえ思いますね。
教育現場で一番の問題は、大きく2つあって、それは学生が学びたいと思えるものを学ばせてあげる体制にないという点と、いじめが相変わらず減らないという問題を前回語りました。今日は引き続き、このいじめの問題を話してみようかと思います。
いじめは子供だけの世界でしょうか?
もちろんみなさんご存知の通りです。世間ではくだらない他人事やどうでもいい他人の不祥事や不倫、色恋沙汰をいい大人がよってたかって取り上げ、吊し上げ、叩き合い、ニュースにまでしてしまう監視社会です笑 暇な人が多いか、あるいは人が落ちるのを見たい根暗が多いのか。私にはわかりません。
ゴシップと言うのは一つのメディア文化だと思いますし、それがお金を生む以上なくならないとは思いますが、日本のは特に「たちが悪い」。
前回記事でご紹介した自殺率ですが、日本だけでなく韓国も先進国内でぶっちぎりのベスト3入りでした。では日本と韓国に共通するものってなんだろう?って考えるのが自然ですよね? 考えてみました。
・監視体制
・学歴至上主義
・美容文化
まあ、以前ほどとは言わないまでもまだ残っている学歴へのコンプレックス。偏差値至上主義。私見ではありますが偏差値っていわば、地頭のよさを図るものというよりは、「従順に義務教育を身に付けてきた値」くらいにしか思いませんね。まあ、そんなことはどうでもいいのですが。本題です。
いじめはなくなるのか?
赤ちゃんは大人を見て育ち、言語を覚えますが、これは自我が発達しても同じだと思います。環境に応じて、立ち振る舞いも声の発生でさえ人間は環境に馴染もうとする生き物です。ではこれを元に考えたときに、10代がいじめに走るのは自然なことじゃないのでしょうか? 理由は、外の世界が監視社会だからです。大人がやるのに子供にやるなって、もうそれ、またかって話なんですが、虫が良すぎるんですよね。
レールを外れること、人と異なることへのくだらない攻撃は村八分時代から令和をえても日本人は進化してないんじゃないんですかね。
あとはレールを外れることへのプレッシャーを仲間や親、先生からも受けていたとして、それが興味のないものだとしたら、学校へ行きたくなる理由はありません。普通の子なら。
結論を出すとしたらどうでしょうね。
もう大人の社会が変わるしかないのだと思います。アホなことで人を攻撃しない。監視しない。完璧を求めない。多様性を認める。子供のクリエイティビティを舐めない。支援する。そういう一つ一つのものを全体で俯瞰して捉えないと、互いに相関しあっているものですので、部分で学校サイドだけで見るから解決して行かないのかなって。いじめにあう生徒の担当の先生を攻撃するケースもたまに聞きますが、そりゃ解決できるわけがないんです。いじめが授業中に先生の前だけで繰り広げられているのなら別ですが。
美容文化というものを出しました。なんとなく共通項をと思いまして、一見教育とは関連のないものが出ましたが、これも考えてみたら「完璧主義」という点においては何か見えてきそうですね。
無駄なものを消す、最近でなら美容関連ですと脱毛、整形ですね。これも
「はみ出した余計なものを消しましょう」
ですね。
ちなみにやや脱線しますが、「創造性」とは、はみ出したものから何かが始まる場合が多いです。意図しないものが出たけど、そこから発展して、思いも至らなかったブレイクスルーに経験するなんてことはデザインの現場でたまに経験します。
「排除」する対象を、オートマチックに排除せずに観察するんですよ。それを見る行為を通して、気づきをえてさらに発展させる。
この私にはどうにも結論付けられない重めのテーマに、今日はやや脱線気味の締めくくりで終わりたいと思います。
次回はお待たせしました。
生徒に向けて、理不尽に苦しんでいる生徒に向けて書きます。このテーマの最終回です。