街頭広告はこのままでいいのか?
街頭広告というものがあります。
電車、タクシー、バス乗り場などの交通機関網に敷かれた広告です。最近ではサイネージ化もしています。サイネージとは、駅や百貨店の柱に設置された画面で切り替わる「あれ」です。みなさんはこうした広告をしっかり見てますか? 今日はこの街頭広告だけでなく、ネット空間に入り込むマス向けのデジタル広告なども含めた全てのマス向けの広告機能について考えてみる記事です。
ここで、Facebook広告を例にします。
みなさんがFacebookをやっていたとしましょう。
みなさんの親しい友達からフィード広告が流れてきました。
みなさんの反応は以下のいずれかです。
A 親しい人 → あいつ広告打っているんだな
B 親しい人 → あいつ広告打ってるけど、お金に困ってるのかな?
C 親しい人 → あいつ広告、たくさん人に見られるといいな
D 知らない人 → この広告は面白そうだな
E 知らない人 → この広告はうるさいのでブロックかスキップで
この5パターンです。
いわゆる「A、B、C」は企業のファンです。「C」なんていうのは「応援」思想が入っています。
仮にマスが100人としたら、その中の90人は「D」か「E」です。それ以外の10人は親しい人、ファンです。さらにその中のコアなリピーターは2人くらいかもしれません。このコアの2人は「C」です。応援します。広告を見たらむしろ喜ぶ人たちです。自分が愛着を持った商品なので大きくうたわれればうたわれるほど、喜びます。愛用している商品の価値が上がれば、それに価値を見出していること自体が「肯定」されるから嬉しいわけです。株価が上がると嬉しいのと同じ原理です。
ではその他の90人ですが、「D」か「E」です。
そこで、この友達の街頭広告を打つ目的は「新規顧客獲得」、つまりこれは「D」に向けて行われますが、100人いて10人に興味を持ってもらえばいい方でしょう。つまり、マス広告を見る人たちのほとんどが「E」なわけです。つまり70人〜80人近くの7割8割の人たちから
「うっとおしいな」
「興味ないな」
と感じられている。
これがマス広告の実状です。そしてこれに企業は毎回、巨大な予算をかけて単発的な広告を打ちます。中長期的な広告施策もありますが、短期間的な売り上げアップを狙ったものもいまだに多い。これには結構な予算を使います。私たち個人がFBやインスタグラムで簡易的に出せるデジタル広告費とは桁が違う予算で行い、効果測定をします。全てはほぼ新規顧客の「D」の1割に向けた狙いです。
先日の記事でビールの話をしたので、ビールを例にします。もう夏が近づいているのでビール広告が出始める頃だと思います。自分の好きなタレントが広告でビールを飲んでいる姿を目の当たりにした時、おそらく買いに走る人は一定数いるのでしょう。いるから飲料企業各社は膨大な予算をかけて毎期ビール合戦を街頭で繰り広げるのだと思います。「うまい!」「コク!キレ!」みたいな言葉を飛び交わせます。でもこれの効果もおそらく一時的です。この憶測の理由としては、「何度もやる」からです。
商品に本当の魅力があるのなら単発施策を乱発しなくても売れるものは売れる。タレントの知名度に頼った商品PRって、ブランド力に貢献をしているのか? と言えば、疑わしいと私は思います。
SNSや口コミの登場により、もうあのようなマス向けの何の面白みもない広告は加速度的にスルーの時代になると思います。情報がTVと新聞だけだった昭和の時代はもう終わっているので、見る側のみなさんも広告の「薄っぺらさ」はもう十分ご実感されていると思います。
企業はこれから「広告の出し方」まで
ユーザーに判断されるようになる
私はこんな感じでみています。
広告自体のデザインがどうとか、載せている商品がどうとか、価格がどうとか、もうそこを通り越して、広告自体に対する向き合い方から出し方までちゃんと判断され、ブランド視されるような時代にきているのかなと。
パブリックリレーションって別に悪いことじゃないと思うんですけど、そのやり方を考えないとユーザーから逆に嫌われるというか、ブランド毀損にもなり得るんじゃないのかなって。
街頭であれば、大きな面積でそれこそ、渋谷のスクランブル交差点の見えるサイネージ枠に。あるいは雑誌であれば、VOGUEやGINZAの表紙裏面の広告ページに。そこの媒体をとること自体が一つの「ブランド力の誇示」とも取れる出し方も、あと何年続くのか。
人と同じもの、メジャーなものを「善」とする評価が存在するうちは、まだ街頭広告は消えないと思うのですが、最終的には本当のモノの価値を「自分の視点」で判断する人がもっと増えていったときに、街から広告は消え失せていくんだと思います。あるいは広告が広告としての機能をしなくなっていくのかなと。
そんなことを考えたりしてます。