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「好きなものを好きだと言う、怖くて仕方がないけど、本当の自分、出会えた気がしたんだ」
群青/YOASOBI
本当にやりたいことには近づきたくなかった。本当に好きな人には気持ちを伝えられなかった。そんな、採れたてのグリンピースくらい青く苦い経験を持つ人は、どれくらいいるのでしょうか。
天下のYOASOBIのお二人が歌にするくらいですから、意外にも多くの人が通ってきた道なのかもしれません。そう思うと、少し安心しますよね。
この一節から分かるのは、「想像の世界は現実よりもずっと怖い」ということ。
「これをやったらどう思われるだろう?」
「変な評価をされるのではないか?」
「失敗して笑われるんじゃないか?」
そんな無作為のツイートが、越後湯沢の雪のように際限なく降り注ぎます。やたらリアルに、果てしなく。
一方、現実の世界には「事実」という制限があります。自分の五感を通じて体験したことは変わらない真実となり、経験の始まりは同時に終わりをも意味します。これが現実のルールです。
たとえば、バンジージャンプで最も怖い瞬間は「飛び降りる前」です。実際に飛んでしまえば、あとはただ落ちるだけ。体験が始まった時点で、想像の恐怖には終わりが訪れます。
大切な人やことから拒絶されるのは、確かに苦しく悲しいことです。だからこそ、嫌われたくない、受け入れてほしいという思いが強くなるのも自然なこと。しかし、ふと自問する瞬間が訪れるのです。
「今の自分は、本当に自分が好きな自分なのか?」
「自分がやりたいこと、本当の気持ちは何だったのか?」
「自分の喜びは、どこにあるのか?」
安パイな選択は一時的な安心をくれるものの、その代償は自己実現を先送りにすることです。最初から「誰かのために生きる」スタンスでは、本音を隠し続けることになり、いずれ限界が訪れます。人間の本音は隠されたくらいで消えるものではありません。
本音を出すことは怖くて苦しい。
でも、自分に嘘をつき続けることは結果的にもっと苦しい。
ただ、焦る必要はないと私は思います。本音を隠すことの方がメリットが大きいと感じている時はそれでいいのです。
「もう自分に嘘をつくことができない」と心が熟した時に動き出せばいいのでしょう。
我々がこの世に生まれた時から持っている原動力のひとつは、好奇心です。見たことのないものに手を伸ばし、音がすれば振り返り、口に入れて感触を確かめる。誰もが最初から「未知を探求する生き物」として生を受けます。
本当にやりたいことに挑戦したい。大切な人に想いを伝えたい。奇跡的に芽生えた気持ちをこれからはどうしていきたいですか?
知らず知らず隠してた
本当の声を響かせてよほら
見ないフリしていても
確かにそこに、今もそこにあるよ
知らず知らず隠してた
本当の声を響かせてよさあ
見ないフリしていても
確かにそこに君の中に