0歳との帰り道、突然の雨。傘もない私の前に現れたのは・・・【子育てエッセイ】
その日、私は鬱々としていた。
0歳の息子が生まれて、しばらく経った頃。
出産直前までバリバリ働いていた仕事はパタッとなくなり、引っ越したばかりのアパートで24時間、子供と向き合う日々が続いていた。
そりゃあ、息子はかわいい。笑うようになってきたし、寝返り続けて部屋の端まで移動するし、やわらかな舌でなんでもアムアム食べるのもかわいい。
でも、なんだろう。
このモヤモヤは。
社会は日々動いている。
会社で引き継いだあれやこれやの仕事は、きっともう進んで終わって次に行ってるだろうし、出勤途中のパン屋は季節商品を春から夏に替えてるはずだし、ここカフェできるのかなって思った建築中のところはとっくにオープンしてるに違いない。
でも、私はほぼ毎日ジャージ姿で、小さな木造アパートの2階の6畳二間、0歳児との半ば独り言の会話で一日を終える。
私の世界は何も変わらない。
幼い頃にVHSで見た、学園祭を延々とループするアニメ映画の中に、私と息子がぽとんと落っこちたようだ。
ただ息子だけが唯一、この繰り返す世界で、じわじわ膨らむ風船みたいに、気づけば大きくなっている。
「・・・」
授乳を終えた息子は、両手バンザイの形で眠りこけている。
とりあえず、オムツだけは今日、ドラッグストアまで買いに行かねばならない。
車はないし、子供を抱えてちゃ自転車にも乗れない。
いつも抱っこ紐で息子を抱っこして、片道15分の田舎道を歩いていく。
息子の排泄ペースと睡眠リズムを考えるなら、外出は今のうちだ。
「・・・おそと、いこうねぇー」
抱っこ紐を装備し、完全に脱力している息子を前に収納する。
外に出る理由も、タイミングも、全部息子メインだな。
でもそんなの考え始めたらまたモヤモヤするし、一回外の空気を吸おう。
少し風があるな、と思って、ああそうか室内だと風すら吹かないもんな、なんて思いが胸をよぎる。
無風で、生暖かくて、刺激の無い世界。
かたや、風が吹いて、雲が動いて、光が落ちる世界。
ああ、走り出したい。
でも息子を抱えて走ったら、あのお母さんどうしたの、と奇異の目で見られるだろう。
優しいママは、前に子供を抱えたままで、唐突に歩道を走り込んだりなんかしないのだ。これタンポポよなんて寝てる子供に説明しながら、穏やかな笑顔で優雅に行くのだ。
「・・・」
ぽてぽて、ぽてぽて歩いていくと、広い通りに出た。
川を渡ればドラッグストア。
売り場でオムツを見たら、ちょっと高いオムツが限定セールをやっていた。
お一人様二つまで。一瞬迷って、二つ持ってレジへ行って店を出る。
あれ?
さっきより・・・空が暗いような・・・
風が吹く中を、両手にオムツ、前に息子、早歩きで大通りを抜ける。
嫌な予感はしたんだ。いつって言われると分からないけれど、とにかく嫌な予感はしてたんだ。
橋を渡って少し過ぎたあたり、ちょっと段になっているところ。
「あっ」
足が何かにひっかかって、もつれる。
近づいてくる地面と、スローモーションの世界で私は、とっさに息子は守らなきゃと思う。でも両手にオムツが。そうだクッションだ。お腹の前に滑り込ませてそのまま倒れる。
べしゃっ。
お腹にオムツ、膝と顔面は地面。私とオムツに挟まれてびっくりした息子が、胸の下で泣き出す。
自転車で通りかけた男の人が、大丈夫ですか、と止まってくれた。でも私は恥ずかしいのと情けないのと、早く家に帰らなきゃという焦りとで「大丈夫ですハイ大丈夫です、ハイほんとに」と早口でその場を立ち去る。
大通りを外れ、田舎道の直線ストレートを行けばアパートだ。
帰ろう、帰らなきゃ、帰りたい、帰るべきだ、と頭の中で「帰る」の活用をゴロゴロ回していたら、頭上でもゴロゴロ言い出した。
頼む。頼むから。
さっき膝すりむいてジーンズに穴あいたの知ってるけど、そんなのどうでもいいから。
息子が早歩きでゆさゆさ揺られて、びっくりした目で固まってるけど、帰ったらごめんねって謝るから。
もう、息子と二人でおとなしく、家の中にいるから。
だから、だから・・・
・・・
・・・天気予報を見なかった、私が悪いのか。
外に出ようとした私が悪いのか。
わがままを思った、私が悪いのか・・・
私の・・・何が、悪いのか・・・?
「・・・」
雨粒は、どんどん、どんどん集まって、私と息子に向かってくる。
息子の頭上に掲げたオムツに当たった雨が、バチバチと私の顔に跳ね返り、その下で息子はやはり目を丸くしている。
もう、仕方ない。
傘もなけりゃ、雨宿りする屋根もないんだもの。
あとは転ばず、せめて息子は少しでも濡らさずに、家に急いで帰るしか・・・
「どうぞ」
突然ふってきた声と、目の前の傘。
「えっ」
顔を上げると、脇に車が止まっていた。
そこから、見るからに上品そうなおばさまが降りていて、傘を差してくださっていた。
「えっ」
どなただろう、と思ったが、ご近所さんの顔がわかる訳もない。いや、これはきっと、本当にただ、通りすがっただけの方ではないだろうか。
「使いなさい。濡れちゃうから。はい。早く」
「えっ、えっ」
傘を私の手に握らせて、おばさまは車の中に入る。
「あの、すいません、でも家もうすぐなので、だいじょ」
「何言ってるの赤ちゃんいるでしょう。その子にあげるのよ」
息子を見る。
息子は目をぱっちりあけて、様子を伺っている。
「でも・・・どうやって返したら・・・」
「いいのよ返さなくて。あげるのよ」
おばさまは笑う。
「お母さん、大変よね。荷物も抱えて。体大事にね。ムリしないで。雨なんてすぐ止んじゃうんだから、のんびり行くのよ」
それだけ言って、おばさまの車は行ってしまった。
「・・・」
あまりにも、一瞬の出来事だった。
『お母さん、大変よね。
荷物も抱えて。』
「・・・」
『体大事にね。
ムリしないで。』
「う・・・」
雨と、涙と鼻水と、色々混ざって濡れた顔をぬぐう。
『雨なんてすぐ止んじゃうんだから、
のんびり行くのよ。』
その場で立ち尽くしていると、確かに、雨は小降りになってきた。
よく見ると、むこうは日が差している。
お借りした傘を肩に挟みながら、ゆっくり、ゆっくり歩いて帰る。
アパートについた頃には、雨は上がっていた。
振り向くと。
「わぁっ、虹だよ、虹!」
はしゃいで息子に報告する。私の方が子供みたいだ。
息子は見えているのかいないのか、私の指差す方を、物珍しそうに眺める。
あの日、私は、鬱々と家を出たのだ。
でも帰ったときには、確かに、晴れやかな気持ちで空を見上げていた。
あの日、あのときふれた、眩しいほどの「やさしさ」。
私と息子の心の奥で、今もずっと光っている。
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