一方その頃(もう一つのストーリー)番外編
少し母の事を書きたくなったので書こうと思います。
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母は、昭和30年に鹿児島県の練兵町というところで生まれました。
母の母、つまり私からして祖母は、
三味線のおしょさん(師匠)で、とても美しい方だったそうです。
写真はたったの1枚しか残っていませんが、確かにとてもお綺麗でお上品そうな方です。
母の父、つまり私からして祖父は、
祖母よりもかなり年上の、いわゆるお爺ちゃんという雰囲気の方です。
こちらも1枚だけ写真が残っています。
この二人の馴れ初めまでは不明ですが、
妻子持ちの祖父と、三味線のおしょさんの祖母が、
どこかで出会い恋に落ちて、母が生まれたんだそうです。
母の話で聞く祖母は、勝気でとても強く、たくましく、
そしてどこか魅力的な方だなぁと、こどもながら感じていました。
祖父は妻子がいる身ではありましたが、祖母と母と3人で暮らしていたそうです。
当時の母は活発な性格で、男友達に囲まれて、
毎日木登りや戦いごっこに明け暮れていたとか。
当時の事を話す母はいつも、目が輝いていて楽しそうでした。
母が10歳の頃、
祖父が闘病の末、肺結核でこの世を去ったそうです。
お葬式などの参列が許されなかった祖母はその後、
祖父の妻子の元を訪ね、強引にお骨を奪い取ってきたそうです。
その後、祖母と母と、祖父のお骨との生活は約2年続き、
母が12歳の頃に祖母もまた、胃癌に侵されこの世を去りました。
2人分のお骨を抱え、
たったの12歳で、天涯孤独の身となった母の心境を想像すると、今でも胸が苦しくなります。
その後母は、親戚中から疎まれ、忌み避けられ、たらい回しにされたあげく、児童養護施設に入所する事になったそうです。
養護施設でも、イジメなど様々な困難の日々が続き、
この世はなんて非情なんだろうと感じていたようですが、
たった一人、天涯孤独の身の母は、自由でもあった。
施設の計らいがあったのかは不明ですが、
中学を卒業と同時に母は大阪へ移り、繊維工場で働きはじめたそうです。
うんざりしていた故郷を離れ、心機一転、母は大阪での生活を楽しんでいたようです。
繊維工場の寮に住んでいた母は、そこで友人も出来、
友人たちと共に、
夜な夜な寮を抜け出しては、当時ディスコと呼ばれた遊び場へ通っていたそうです。
そこである日、母は出会いました。
私の父と。
私が生まれた時にはもういなかった父と。