一方その頃(もう一つのストーリー)5
しばらくして、母が入院する事になりました。
病名は肺結核。
サイコロの5の様な形で、右肺に穴が5つあいていたそうです。
家族感染の疑いがあったため、私たちも検査を受ける事になりました。
私たちを見てくれた医者は、さぞかし驚いた事でしょう。
その頃の兄と私の体は、
全身紫色に腫れあがり、無数の火傷やロープ跡などが見られたからです。
そして小児結核を患っていたので治療をして、
その後私たちは、一時保護所と呼ばれる場所でしばらく生活をしていたと思います。
母と『化け物』はいなかった。
兄と妹は、恐らく一緒に居たと思いますが、あまり覚えていません。
覚えている事は、木の絵を描いた事だけです。
描くように言われて描いていました。
一人で、日が差し込む狭い部屋で描いていた様に思います。
1本だけ、画用紙の真ん中に描きました。
その後、ある児童養護施設に入所しました。
そこでの記憶は、
2歳の妹が、階段で突き飛ばされて怪我をした事。
そして、母にプレゼントしたくて、
牛乳パックで作ったお城のようなものを、職員に燃やされた事、
制服を着て通う小学校に、私たちだけ私服で登校していた事、
そして酷いイジメを受けた事など、良い思い出はありません。
その時の自分の感情みたいなものは、全く出てこない。
全然思い出せない。
だから辛いとか悲しいというような感情も出てこないです。
ただ、きっとなんとなく、どうでも良く生きていたんだと思います。
私たちは数か月で、
また別の、山奥にある児童養護施設に移転しました。
私はその時8歳、そして兄は9歳、妹は3歳です。
移転の理由は、
かなり後になってから知りましたが、
施設のルールに対して、母が抗議をしたためでした。
その施設では、
入所児童との面会は、お盆とお正月のみ。
外出・外泊は一切禁止だったとの事。
「自分の子どもなのに、自由に会えないなんておかしい!」
母は当時を振り返って、そんな調子で話していましたが、
今考えると、虐待を受けて入所した児童に対して設けられたルールだったかもしれません。
詳細は不明ですが、母の訴えが叶い、
当時比較的ルールの緩かった施設へと移転したという事です。
つづく・・