異能β-18: Unser家の人々
Indy 500を紐解くと、Unserという文字が目に付く。何しろ9回の優勝を誇る一族といったらUnser家だけ。
アメリカレース界の名門一家であるAndretti家。Mario Andrettiに始まり、その息子MichaelとJeff、その孫のMarcoが、Indy 500を戦い、それぞれ好成績を挙げている。更に双子の兄Aldoとその息子のJohnとAdam、孫のJarettも同じレースを戦っている。しかし、Indy Carの中で最も注目されるレースとも言えるIndy 500とAndretti一族の相性は悪く、度々好走しながらも、1969年のMarioによる1勝にとどまっている事を考えると、一族で9勝は素晴らしい。
「note」「事実は小説よりも奇なり-1 STPの呪い」を参照されたい。
中心人物は次男のAlfred "Al" Unser, (1939.05.29 – 2021.12.09 82歳)から。
Al Unserはニューメキシコ州のアルバカーキ生まれ、長兄のBobby Unserの弟であり、Al Unser Jr.の父でもある。息子のAlがデビュー後はAl Unser Sr.として紹介される様になり、ビッグ・アルの愛称で親しまれた。1965年にIndy 500に初参戦し27回のIndyを戦った。1970・1971・1978・1987年に優勝を飾っている。特に最初と2番目が連勝であったこととトリプルクラウンを1シーズンで獲得したことは賞賛に値する。
Indy以外でも活躍していて、F5000、Daytona 500やPikes Peak Hill Climb でも活躍。
珍しいところでは1968年の日本Can AmにLola T160で参戦、そのプログラムには「1968年Indy 500の勝者の弟」と紹介されていた。この車は本来Mario Andretti用、M. Andrettiは1967.11.10のLas Vegasで12位ながら完走しているが事情があってエントリーせずA. Unserが代役としてエントリーしたものと推察される。
1994年のIndy予選中に引退表明。
兄のRobert William“Bobby”Unser(1934.02.20 – 2021.05.02 87歳)生まれはコロラド州コロラドスプリングス、生まれてまもなく弟と一緒にアルバカーキに移り、1949年に15歳でレースキャリアを開始。1959年、兄がIndy 500の練習中に事故死している。
Indy 500は1968・1975・1981年に其々優勝、3つの異なる年代の優勝は彼とRick Meiyarsのみ。
1981年のレースでは、1位でチェッカーを受けたが、コーション中に、8台を抜いたことが問題となりMario Andrettiのチームからのクレームがあった。結論がでるまで4ヶ月が掛かり、更に4万ドルを払わざるを得ず、2位でフィニッシュしたMario Andrettiとは犬猿の仲になったと言われ、この結果に失望しIndy 500の世界から引退した。引退後は以前から参戦していた、パイクスピーク活動に生き甲斐を見出し1986年にアウディー・クワトロS1で優勝している。息子のロビー・アンサーもIndy参戦経験あり。弟Alと共にIndyを制覇した唯一の兄弟でもある。
前述の「note」「STPの呪い」を参照されたい。
Alfred Unser Jr.、(1962.4.19- )は、父親同様アルバカーキ出身でIndy 500に2度優勝、愛称は「リトル・アル」。
11歳の頃までにはスプリント・カーのレースに出走していた。高校卒業後には、すでにスプリント・カーのワールド・オブ・アウトロー・シリーズに出走するようになっていた。
1982年、Al Unser Jr.はCARTにデビューし、1983年、初めてIndy 500に出場し、10位完走を果たした。1986年にはInternational Race of Champions racing series (IROC)選手権にも参加するようになり、4レース中2勝を挙げてチャンピオンとなった。 IROCで24歳は史上最年少チャンピオン記録となっている。同年、Daytona 24hでも優勝している。Unser Jr.はCARTにおいても1986年に年間4位、1987年に3位、1988年に2位とじわじわ強さを増していき、1990年にはついに最初のチャンピオンを獲得するに至った。1992年にはScott Goodyearをわずか0.043秒押さえてIndy 500での初勝利をものにした。これは現在でも、インディ500における最小差での勝利である。1994年にはインディで2度目の優勝を成し遂げ、16レース中8勝を挙げて2度目のCARTチャンピオンに輝いた。2000年CARTから離れ、設立されたばかりIndy Racing League(IRL)に参加、同年Las VegasにおいてIRLでの初勝利を挙げた。
IRLにおいてアンサーは通算3勝を記録したが、2003年10月にバギーの事故で骨盤を折る怪我を負ったため、2004年シーズンの出走は困難を極めることになった。結局彼はPatrick Racingとの間で3レースの出走契約を結んだものの、Richmondでのレースで22位完走を記録したのを最後に、2004.06.30をもって引退を宣言した。
編集後記
「note」に最初の1話「レアモデル列伝−1 性能指数賞は狙い目」と題して、Nardi 750を原稿にし掲載されたのが、2022.04.23。
それから2年2ヶ月で今回100話目が掲載の運びになった。これらを読んで頂くと同じ内容が何回も出てくるが、一つとして全く同じ記事はない。同じ様な話でも取り口や切り口、見る方向から異なった(一部は同じでも)話になるのはレースカーが題材なので致し方はないか。
今回の題材はUnser一族が主題である、画像は色々探して、この文に載っている3人がIndyの優勝カップを前にし、指を立てている写真、誰が誰なのかは指の本数が3・4・2になっているので直ぐ分かると思う。
本文は種々の文献を読んで纏めるが、モデルの写真は出来るだけ手持ちの品を出したい、そのために結構な出費となるし、オークションでは夜中に入札なんてことも度々、まあ、それでも落札できれば嬉しいが、筆者があの世に旅立った後、二束三文で処分されたらと考えたら夜も眠れず、今日も昼寝で英気を養った1日であった。
2024.06.16
参考文献
・林信次 INDY 500 1911-2017 三樹書房 2018
・TEAM PENSKE 50 th Anniversary at the Indianapolis 500
Rizzoli New York 2019