25歳阪大卒OL、社会不適に戻ろうと思う。
2020年1月
面接開始まであと3分、会場までの赤坂の道を、また走っていた。面接はこれで十数件目、会場まで走っていくのもこれで10回を超えていると思う。原因は色々で自分でもよくわからないけど、なぜかいつも面接までギリギリだった。(今回は会場近くまで1時間以上余裕を持って到着したので空き時間にカラオケで面接練習をしていたら、気づけばそんな時間になっていた)1分遅れくらいで会場につき、息を整え切らないまま面接官の前に立った。カラオケで練習したことは全部飛んでいた。
数週間後に大阪に戻り、バスの中で御社から不合格連絡をもらった。このときバスに乗っていたこと、そのバスから窓の外に流れていく住宅街の景色を「止まれ」ボタン越しに見ていたことをなぜかすごく覚えている。この時点で、数十社受けた面接に全て落ちていた。自分は社会で生きることに向いていないんだと思った。北野高校を出て大阪大学に通い、わりかしエリートとして生きてきた私にとって、その感覚は初めてで想像以上に耐え難いものだった。心がダメになる感覚がした。その後首の後ろに神経痛が出始め、夜も眠れなくなり、何もないタイミングで涙が出てくるようになった(東海オンエアのめちゃくちゃ面白い動画をぼんやり見ながら泣いたりしていた)。
家で泣きながら、自分はどうやって大人を生きていこうかと、立ち止まってこの頃の自分を振り返ってみた。そういえば、就活を始めた頃から会社に入りたい理由が心に浮かんだことなど一度もなかったし、純粋な自分は「ステージに立って歌ってみたい」とか「いつかエッセイを出してみたい」とか「ラジオのパーソナリティをやってみたい」とか思っていたなと自覚した。そして、就活中は「会社に入らないといけない」という"常識"だけが私を面接会場へ動かしていたことも自覚した。
小さい頃から、誰かに注目されなくなることをすごく恐れていた。そして、その恐怖から逃れる方法として幼い私が思い至ったのは、「その場その場で求められていそうなアウトプットを出し続けよう!」だった。勉強ができること、足が速いこと、誰にも分け隔てなく笑顔でいること。自分が生きた環境では歌を歌えるよりもそういうことが強力に人の注目を集めたので、学生時代はひたすら勉強を頑張り、運動を頑張り、嫌な気持ちは奥に押しやり、いつも明るく笑顔で生きた。そうして「ねるねはやっぱりすごいな」と言われることに、ひたすら夢中になっていた。その結果、望み通り注目を集める優等生になれた一方で、21歳の頃には自分のしたいことに従って生きることができなくなっていた。小学生の頃の自分が大きい声で語っていた「歌手になりたい」という夢はどんどん他人事になっていって、気がついたときには、とっても羨ましくて美しくて憧れで憎らしい「誰かの」人生の話になってしまっていた。
そして21歳のこのとき、そうやってずっとみてみぬふりをしてきた自分の憧れた未来が突然、向き合わざるを得ないものとして目の前の景色に飛び込んできてしまったのだった。私は、社会に出て会社員として働くことに不向きだと確信した今、この夢に本気で向き合うべきなのかもしれないと思った。生まれてこのかたずっと好きだった歌で生きるということを、一度本気でやってみようと思った。
その春、就活を途中でやめて1年間休学することにした。直後いくつか応募したレーベルのうち1つに拾っていただき、そこで少しずつ音楽をやり始めた。
2025年1月
先日、ある人から「絶対歌やった方がいい。後悔するよ。」と言われた。休学を決めた21歳の3月から5年が経とうとしている今、私はあるベンチャー企業に勤めている。インターンの頃から数えて、今年で5年目。
休学後、私は初めて「社会の正規ルート(だと思い込んでいたもの)」から外れ、「歌で有名になる」という漠然とした大きい目標に向かって一人で生きていた。一見1年間の自由を与えられて幸せなようで、その自由は想像以上に辛かった。21年間、コミュニティに所属しそこで求められていそうな正解を出し続けてきた私にとって、慣れ親しんだコミュニティがない孤独、そしてすべきことが一切決められていない空白の1年間は…地獄のように不安だった。「1年後に歌で生計を立てられるようになりたい」ということだけが決まっていて、そこへの向かい方もそこに対しての現在地も一切わからない。そんな中で、漠然とした焦りと小さな絶望感がずっとあった。拾ってもらった事務所の社員さんたちに教わり、しばらくはSHOWROOMで毎日配信をしばらく続けていたが、それも焦りと不安の中で苦痛に変わり、休学前と同じような不安定な状態に戻ってしまった。
休学を始めて半年経った8月、インターンとして今の会社に出会った。当時社員2名とインターン生10人ほどで構成されているような小さい会社ではあったけど、一人ひとりの熱量やビジョンが素晴らしいとっても素敵な組織だった。こんな社会不適な私の得意に目を向け、私の将来やスキルを信じ、挑戦の機会を与え続けてくれた。その中で次第にできることが増え、デザインを軸にそれなりにポジションも与えてもらうようになる中で、気が付けば私の中で歌は二の次になっていた。いや二の次どころか、1年も経てばほぼ触れなくなっていた。会社の一員であれる安心感、温かいコミュニティ、人から求められる成果とそのためにすべきこと。これまでの人生に当たり前にあって休学してから無くなったものが、そこにはあった。私が夢中になったのも仕方ないと、今振り返って思う。その後自ら申し出る形で正社員になり、今に至る。
この4年間、私は紛れもなく仕事と会社が大好きだった。人数が少ないベンチャー企業だからこそ求めていただく責任も重く、ぶっちゃけ仕事は大変だった。スキル不足が辛くて泣きながら働いたときも何度もあった。でも、会社に絶望的な不満はなく、仕事もいつだってすごく楽しかった。好きで22時ごろまでPCを開いているし(労務部からは怒られた)、1週間で10時間ほどしか寝ないような時期もあった。仕事と会社が好きだし楽しかったからそうしていた。とにかく夢中だったと思う。
ただ、そうやって歌にかける時間がなくなっていくなかで、「また人から求められることばかりをやってるな」と自覚する時間が刹那に何度かあったのも事実だった。会社の仕事に時間を使いひたすら努力しているようにみえて、それで1日を埋めることによって自分の夢から逃げようとしているのかもしれないと。でも、その思いを数日後に忘れてしまうくらいには、24年の人生で積み上げた価値観は強力だった。小学生の頃の夢をふと思い出しては、求められることに忙しく1日中PCに向かう楽しい日常がそれを覆い隠し、次の日をまた会社の評価制度に沿って走っていく。そういうことを繰り返して、4年が経った。
ここ数年会社で働くうちに、デザインを極めて誰かの役に立つことが私の"夢"になっていた。その"夢"にむかって動けることに楽しさを感じながら、いつしか歌は夢の枠からすっかり外れていた。私にとって歌を歌いたいのは完全に自分のためであり、誰かの笑顔や幸せのためではない。私は、そんな独善的で利己的な夢を持っていることをなぜかずっと後ろめたく思っていた。だから誰かのために何かしたいと思えるデザインの"夢"ができたことに安堵していたし、これが自分の最高の夢なんだと思うようにもなった。
そんな私に「絶対歌やった方がいい。後悔するよ。」と言ってくれたのは、私がデザインの弟子にして欲しいと頼み込んだ先のデザイナーさんだった。会社のイベントで知り合った方で、デザイナーとして数十年キャリアを積んでいる方。デザインの本もいくつも出している。今まで独学でデザインをしてきたが、その道を極めるなら人から教わる必要があると思い立ち、私からご飯に誘って弟子入りを申し出たのだった。その方は、最初は弟子入りを快く受け入れてくれ、「そんなにデザインを極めたいという人もなかなかいない」と嬉しそうにもしていた。だがその次に会ったタイミングで、そもそもなぜそんなにデザインをしたいのか?を起点に私の夢を深ぼってくれた後、「あなたの夢にデザインが綺麗に繋がっていないから、多分デザインの弟子は続かないと思うよ。」と、そして「絶対歌やった方がいい。後悔するよ。」と伝えてくださった。
実は10月ごろから、「そろそろ自分の素直な夢に向き合うべき時なんだろうな」と思う機会が立て続けにあった。自分流に生きている先輩の話を聞いて嗚咽しながら号泣したこと。行きつけの居酒屋の店長からミックスができる人を紹介してもらったこと。会社の飲み会で隣になった後輩がアーティスト志望だったこと。適当に参加した交流会にやたら音楽関係の人が多かったこと。直近社内のPJで一緒に仕事した人がどこまでも自分らしく生きていて、かっこいいなと思ったこと。忘年会でバンドをやることになり初めてライブで歌を歌ったこと。それがとっても楽しかったこと。そんな機会が2ヶ月の間に立て続けにある中で、4年間自分の夢を見て見ぬふりしていることへの違和感も膨らんでいた。そんなタイミングで、最後に背中を押したのがそのデザイナーさんからの言葉だった。その言葉にはとてつもない腹落ち感と謎の大きな安心感があった。やっぱりそうだよな、と。私はきっと小さいときからそうだったはずで、それは一切間違っていなくて、まだそれに向かって動き出してもいいんだよなと。
そして、そろそろ、もういい加減に、自分の夢に正直に生きた方がいいと思った。色々なことが重なった機会も偶然ではないのだと思う。これを書いている今日は2025年1月1日。変わるなら今だという感覚がある。
4年後の紅白に出たい。2028年、20代最後の年の紅白。
会社がSNSマーケティングをメイン事業にしてることもあり、SNSの伸ばし方やマーケティングの知識はそれなりに身につけることができた。それに掛け算で、個人で案件を受けられるくらいにはデザインのスキルも身についてきている。そして、21歳のときに妥協してしまった頃とは比べ物にならないくらい、目標設計の仕方やそれまでのアクションの決め方もわかってきている。これまで求められていそうな成果のために使ってきたその知識を、そして自分の時間を、もう少し自分の夢に使ってみようと思う。21歳のことがトラウマなのか漠然と不安はあるが、決められた安心感と、やっと自分の人生が始まるというワクワク感の中でこの文章を書いている。この不安定な感情のバランスを心地よく思いながら、ここから何をしていくか、長い年始休みでしっかり考えてみよう。
いつもと少し違う気持ちで迎えた、2025年の元旦の自分語り。
※追記、これは会社辞める表明でもデザイン辞める表明でもないです。自分の夢にも向き合えるように「求められること」に偏った自分の中のバランスを整える、そのための努力をするという表明です。