#国際通貨体制の潮流|書いて学ぶ高校生


戦後国際通貨体制の潮流

第1次大戦後復活した金本位制は、29年のアメリカ金融恐慌に端を発する世界恐慌の前に崩れ去った。各国は競って貿易為替の直接的管理に走り、この防壁の下で国内的に拡大政策を採用しようとした。一国の管理の強化は連鎖的に他国の管理を強化させる。管理網は、世界的に広範かつ精緻なものへと発展していった。為替市場は崩壊し競争的平価切下げを招いた。双務主義、ブロック主義が横行した。国益の主張から出た政策が自らに還元されたときそれは一層己れの崩壊を促すものでしかなかった。近隣窮乏化政策は世界貿易を著しく縮小させ、不況を逆に深刻化させていたのである。

昭和46年
年次世界経済報告

1930年代、世界恐慌下で各国が為替ダンピング(自らの輸出が有利になるように為替レートを引き下げること)を始めたことによる国際通貨体制の混乱の経験から、戦後の国際通貨システムを構築する際に、世界貿易を拡大するためには為替レートの安定が必要という認識が共有され、1944年7月、国際通貨体制の立て直しのため、連合国側44か国の出席のもと、ブレトンウッズ会議(連合国通貨金融会議)が開催された。

ニューハンプシャー州のブレトンウッズで開催されたことからブレトンウッズ会議と呼ばれる。

当時、ブレトンウッズ会議では、イギリスのケインズ案とアメリカのホワイト案で対立。
ケインズ案は、新国際通貨バンコールを創設し、この国際的管理通貨体制のもとでの国際通貨体制を提案。
一方のホワイト案は、アメリカに圧倒的な経済的優位を基礎に、合衆国ドルを基軸通貨にするというもの。

ケインズ案が原則において拡張的であったのに対し、ホワイト案はより安定的であった。このことは戦後経営に望むイギリスとアメリカの立場の相異によっていた。二度の大戦の戦場となったイギリスは何をおいてもその疲弊した経済の建直しをはからねばならなかったため、必然的に拡張的な構想を打ち出さざるをえなかった。他方,アメリカは二度の大戦においても戦禍を免れ,最大の債権国となっていた。戦後世界を再建するリーダーとして,従来の孤立主義の伝統を180度転換させねばならなかった。そのリーダーシップを完全に発揮するためには、差別主義の撤廃と為替の安定がより重要であった。

最終的にアメリカのホワイト案が採用され、より為替が安定的な金・ドル本位制の固定為替相場制で決定した。

ブレトンウッズ協定の重要ポイント

金1オンス=35ドルの交換を約束し、ドルを基軸通貨(キーカレンシー)とし、固定為替相場制をとったこと。金・ドル本位制ともいう。
国際経済安定のため、外貨不足の国に短期融資するIMF(国際通貨基金)の設立
国際経済安定のため、先進国の戦後復興や発展途上国などへの長期融資を行うIBRD(国際復興開発銀行、通称世界銀行)の設立

ブレトンウッズ体制は、戦前の自国第一主義の反省にのっとり、協調的な自由貿易体制を規定したものだった。日本は1949年、ドッジ・ラインにより1ドル=360円(±1%)の単一為替レートが決定された。

国際通貨基金(IMF)は、為替の自由化を確立するために為替制限の撤廃をIMF第8条に定めており、第8条で規定されている為替自由化義務を履行している国を「8条国」と呼ぶ。
しかし、戦後すぐの外貨不足の時期には、生活に必要な物資や、生産に必要な資源等の輸入に限り、外貨が割当てられていた。戦後の過渡期等にこの義務 から免除されている国を「14条国」という。
日本は1964年に、14条国から8条国の仲間入りを果たしている。

流動性のジレンマとニクソンショック

しかし、1950年代末以降、ヨーロッパや日本の経済が復興し始めると、アメリカの経済力は相対的に低下し、国際収支が悪化。各国は過剰になった手もとの米ドルを金と交換したためアメリカからは金が流出し、さらに1960年代のベトナム戦争でドルの信用は低下の一途をたどり、多額の対外援助もあり、1970年代、アメリカは世界最大の貿易国であるとともに、国際収支は30年ぶりの赤字となる。

これをうけてニクソン大統領は、1971年、自国の競争力回復のための経済政策の一環として金とドルの交換停止を発表。これはニクソン・ショック(ドル・ショック)と呼ばれ、金とドルの交換を前提とした金ドル本位制はこれをもって崩壊することになる。

ニクソン・ショック(金・ドル本位制の崩壊と変動相場制へ)

ニクソン声明の内容:
①金とドルの交換停止
②輸入抑制のため10%の輸入課徴金
③対外援助の10%削減

当時、金とドルは交換可能であるということを押さえると、アメリカの貿易拡大はドルの流出とアメリカの金保有量を消耗するものであり、国際経済の発展によって戦後の金とドルを中心とした通貨体制を維持することが困難になったこと、そしてこの兌換一時停止は諸外国にも事前に知らされておらず、突然の発表であったことなどから、ショックと呼ばれ、極めて大きな驚きとともに、その後の世界経済に大きな影響を与える。

これらの現象を指し、特定の通貨を基軸通貨として固定する金為替本位制の下では、基軸通貨の流動性向上とその信認の維持は両立が難しいという説国際流動性ジレンマと呼ぶ。

この声明により、各国は一時変動相場制に移行する。

スミソニアン協定(固定相場制の回復を図るも失敗)

1971年12月、スミソニアン博物館での会議において、G10スミソニアン協定を締結した。協定では、各国はアメリカ合衆国ドルに対して自国通貨を増価することで合意した。
その内容は、
・金1オンス=38ドル, 1ドル=308円(±2.25%)の固定相場制
ただし、金との交換はしないというものだったが、米国の国際収支赤字は拡大を続け、固定相場制の回復は失敗に終わる。
1973年2月、主要国は米ドルの再切り下げを契機に変動相場制に移行する。日本もこの時変動相場制に移行する。

キングストン合意(世界は正式に変動相場制へ)

変動相場制への移行が正式に追認され、世界は正式に変動相場制へと移行する。また、IMFがドルに代わってSDR(特別引き出し権)を中心的な資産にすることで決定する。


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Voyager
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