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石原なんでも通信 バックナンバーをお届けします。

2年前から学内に発信してきた石原なんでも通信、この4月から 3年目に入りました。令和6年度(4月~)の第二弾、「百人一首と院政時代」(4月8日に学内には発信済)をお届けします。


昨年度にはNHK大河ドラマ “光る君へ“の登場人物の歌をリストアップ
しましたが、今回は平安文化の絶頂期であった“摂関時代”に続く“院政”  時代の和歌を取り上げます。
 
院政とは上皇もしくは出家した法皇が天皇に代わり政治を行う政治形態
ですが、通常、実質的な権限を持っていた白河、鳥羽、後白河上皇の3代の時代を院政時代と呼んでいます。白河上皇が院政を始めたのが1086年、
平清盛により後白河上皇が幽閉され院政が停止させられた1179年までの
約100年を指します。
 
院政時代というのは、平安王朝の文化が最後の光芒を放ちつつ消えていく、表の世界は華やかですが、実態は暗鬱な、どろどろとした時代でした。
同時代の主役はもちろん、上皇3人ですが、その時代を象徴する影の主役、
崇徳上皇、保元の乱(1156年)で崇徳上皇の敵方に回った藤原忠通、崇徳 上皇の母(待賢門院)の女御、そして同じ時代を生きた西行法師の和歌を取り上げます。
 
1.   崇徳上皇 (1119~1164年)

崇徳上皇

1123年に5歳で天皇の座についたものの、23歳で無理やり譲位させられ  上皇となったものの、引き続き院政は父親である鳥羽上皇(~1156年)が 行い、権力の座から遠ざけられました。その後1156年に起こった保元の乱で敗北し、流刑地の讃岐の地でなくなりました。(今、私は讃岐(高松)に
住んでいます! 近くに崇徳上皇のゆかりの地が多くあります。)

若い頃から和歌の才能は抜群で、在位中に「詞花集」の 編纂をさせるなどこの世界では中心的な存在でした。同じ時代に生きた「西行法師」は現役の武士時代は同上皇近くに仕え、出家後も強く慕う存在でもありました。

小倉百人一首 77番 

川の瀬の流れが速く岩にせき止められた急流が二つに分かれてしまっているがそれがまた一つになるように、愛しいあの人とも今は別れてもいつか  きっと再会しよう、、という強い気持ちが歌われています。
この歌は無理やり譲位させられた後、1150年に作られた歌とされています。栄光の時代から不遇の時代へ、そんな中で別れざるを得なかった愛する人もいたのでしょう。その後の讃岐への配流なども考えると胸が締め付けられるような歌となっています。
 
崇徳上皇は表向きは鳥羽上皇の息子とされていましたが、祖父、白河上皇の寵愛を受けた後、鳥羽上皇の皇后となった藤原璋子(たまご)(待賢門院)が時間をおかず出産した第一子にて、実際は白河上皇の子供と言われて
います。白河上皇(~1129年)の逝去以降、地盤を失い、その後は不遇の人生を送る事になります。

2. 藤原忠通(1097~1164年)

藤原忠通

25歳で鳥羽天皇の下、関白に任ぜられて、その後も崇徳、近衛、後白河天皇の3代にわたり関白を務め、形の上では 最高権力者の立場にあったが、 実際は白河、鳥羽、後白河上皇が権力を握っていました。(院政)。
1156年の保元の乱では後白河天皇側に回り、勝利を治めたものの、1159年の平治の乱では源平の武士を中心とした戦いとなり、その後は勝利した 平氏が実験を握る事になります。

小倉百人一首 76番 

忠通は権力の座にありながら詩歌、書にも才能を示し、百人一首に納められている歌も、その権力を示すかのように爽快な歌となっています。
 
意味としては“広々とした海に舟を漕ぎだして、はるかかなたを見渡すと、沖の方に白い雲と見間違うほどの大きな白波がたっている“ となります。
同じく百人一首に収められている有名な小野篁(802-853年)の  "わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣り船”をイメージした歌と言われていますが、小野篁の歌とは違い、孤独感はなく、さらに爽快なイメージの歌となっています。 
 
3.  待賢門院堀河(堀川) (生没年不詳)

待賢門院堀河

院政時代を代表する女流歌人。上述の鳥羽上皇の中宮で、崇徳上皇の母で ある藤原璋子(待賢門院)の女御。待賢門院に仕えた女御たちは、愛人でもあったとされる白河上皇の配慮もあって多くの才媛が揃っていました。  待賢門院の御所には多くの傑出した男性歌人も集まり、「西行法師」もその一人でした。
西行法師、武士時代の名前は佐藤義清(のりきよ)ですが、待賢門院の  同母兄の藤原実能(さねよし)の家人であった事もあり、出家後も堀河を 含む女御とも交流があったものと思われます。

小倉百人一首 80番

 “昨夜契りを結んだあなたは末永く心変わりはしないと言いましたが、どこまでが本心か、心を図りかねて、今朝はこの黒髪のように心が乱れて色々  物思いにふけっています“ という意味ですが、黒髪が強く印象に
残る激しい恋歌ですね。

待賢門院が復興し、住まわれた「法金剛院」が今も京都に「花の寺」として
残ります。タイトル画像は「法金剛院」の掲題図となっています。(公式 サイトからお借りしました。)

4.西行法師(1118-1190年)

西行法師

出家後は全国を旅して「漂泊の歌人」として知られる西行法師ですが、「月」と「花」を好んで歌を詠んだ恋歌が多い事で知られています。
900年も前の歌人ながら今の時代にも通じる感情を詠ったものが多く、まだ
かじり出したばかりの私ですが、既にファンになっています。

小倉百人一首 86番

“「嘆け」と言って月が私を物思いにふけさせようとするのだろうか?
いや、そうではない。(恋の悩みというのに)月のせいだとばかりに流れる
私の涙なのでは、“ といった意味。
出家したのに、上述の待賢門院の御所に訪れ女御と関わり合うなど
引き続き俗世間に浸っている“人間味”が私には好感が持てます。

西行法師は崇徳上皇の逝去後となりますが、讃岐の地を訪れ、上皇の霊を 弔います。法師は讃岐の地でも歌を詠んでいますので、別途特集したいと思います。

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