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「反対するなら対案出せ」に疑問があるよという話

記事の趣旨としては以下の3点である。
■「対案出せ」はいついかなる議論の場でも適用されるべきなのか
■反対の理由を明確に述べるまでが個人としての役割ではないか
■その理由が妥当であるかどうかを検討した上で、妥当であればそれを解消する案を皆で考えることが「対案」になるのではないか

それではタイトルのように思う理由を述べていきたい。

■「対案出せ」はいついかなる議論の場でも適用されるべきなのか


会議等の場において「反対するなら対案を出せ」とはよく言われることである。「反対すること自体が目的の奴もいる」「反対だけするのは議論を停滞させる好ましくない行為だ」「反対するなら提示したものより良い案があるのだろう」
なるほど、もっともらしい意見で正論にも思えるが、私個人としてはずっと疑問に感じていた。
理由は2つある。
1つは事前に議題として提示されていたならともかく、その場で初めて出された案に対して、穴を見つけた上でその穴を解消する案を即席でも出せるものなのか、ということ、もう1つは「言うほど反対することを目的として反対する人なんているか?」ということである。

1点目について考えてみる。
確かに、事前に議題が提示されていて、全出席者に同じだけの時間が与えられていれば「対案を出せ」はまあ間違いではないと思う。この場合、議論というよりはプレゼンに近くなるかもしれないが。
各人が議題に対して(条件的には)同じ時間をかけてそれぞれの視点でアプローチして結論を導き出すことが可能である。したがって「あなたの案はこの視点が抜け落ちているのではないか」という指摘から「だからその視点を盛り込んだ自分の案の方が優れている」という「対案」を出すことができる。

一方で、議題や資料が直前まで展開されず、かつ叩きとして作成された案が会議の場で初めて出される場合はどうだろうか。
これがその分野について専門的に研究し、さまざまな事例について熟知している有識者同士の会議であれば話は別だが、たかだかイチ会社員が集まった会議ならば、出席者が議題に対して極々一般的な知識しか持ち合わせていない(これまで触れることのなかった分野ならば何も知らない)というケースも決して少なくないのではないか。対して提案者は案を提出するために、当然のようにその分野について事前に知識を得ている。
つまり、知識に差がある状態にも関わらず「案」という成果物を求められている状態であり、立場が対等ではないのである。

では、知識があるから発案者が正しく、知識のない反対者は間違っていると言えるだろうか。もちろんそのようなことはないだろう。
なぜなら知識があることと、その知識を根拠としてロジックを組み立てて結論を導くことは別の能力だからである。
例えば、出席者が「内容については詳しくないが、ロジックとして何かおかしい気がする、すなわちそのロジックから導き出した結論も誤りではないのか」とか「分野は異なるが、似たような他の失敗事例を知っている。この案で進めて大丈夫か」と考えて反対を唱えたケースはどうだろうか。

ここで「じゃあ対案を出せ」と言われて、知識が足りないのにその場でそれらの懸念点を払拭する案を瞬発的に出せるものなのか常々疑問に思っている。
もしかしたら優秀な人なら可能かもしれない。が、凡人の私には間違いなく無理だと断言できる。
少なくとも説得力のある「対案」を求めるのであれば、発案者が案の作成に要したのと同じだけの時間を与えることが必要ではないだろうか。

そして2点目の「言うほど反対することを目的に反対する人はいるか」についてだが、もちろん統計を取っているわけではないので正確にはどの程度そのような人がいるのかはわからない。
しかし、自分を振り返ってみて、実際に反対することを目的に反対しますかね、、?ということである。
「いやそんなことするわけないだろ」というのならば、答えは出ている。恐らくそのような人はきっと少ない。
もちろんパワハラに命を賭けているような上司や、優秀な仲間の足を引っ張りたい同僚、先輩、部下だっているだろう。しかし、周りが自分の足を引っ張る敵だらけとかどんなドラマの世界だよ、と冷静になった方が良い。

■反対の理由を明確に述べるまでが個人としての役割ではないか


では、発案に対して反対の意を唱える際に必要なことは何か。
私は対案ではなく、「反対である理由を明確に述べること」だと考えている。

そもそも「反対すること自体が目的の奴もいる」と思われてしまう理由として、
彼・彼女自身が感じた違和感を言語化できていないからということはないだろうか。たった今聞いたばかりの案に対してエビデンスとなる知識があるわけではないが、なんだか引っかかる、その引っかかりをうまく説明ができないが故に「何となく反対」しているように見えてしまうということはないか。

根拠が重視されるのは然るべきだが、一方でうまく説明できない違和感に実は重要な示唆が含まれていることもある。反対意見に対して脊髄反射的に対案を求めるのではなく、なぜそう感じたのかを丁寧に解きほぐしてみるべきではないだろうか。

当然その役目は提案者やファシリテーターのみに委ねるものではない。
反対意見を述べた者の役割、あえて強い言い方をすれば責任として、なぜ反対なのか自分の思考を噛み砕いて言語化し、発案者に伝えるように努力する義務があるだろう。
反対に言えばそれさえ出来れば個人としての役割は終了である。
なぜなら会議はカードバトルではないからだ。

■その理由が妥当であるかどうかを検証した上で、妥当であればそれを解消する案を皆で考えることが「対案」になるのではないか


そもそも、何のために案を出しているのかといえば、ある目的を達成するための手段や策を講じるためであろう。
つまり、最終的にその目標を達成する可能性がもっとも高まると思われる手段なり策なりが作れればよいわけで、個人戦のごとく案の優劣を競い合う必要はまったくないはずである。すなわち行うべきは案の刷新ではなく、ブラッシュアップなのだ。
そう考えれば、発案に対する反対意見に必要なのは対案ではなく、前項で述べたとおり「なぜ反対なのか」の明確な理由であり、次にやるべきことはこの「反対する
理由」が妥当かどうかを検証することではないだろうか。

その場で検証が可能であれば妥当かどうか判断すれば良いし、判断材料が揃っておらず検証不可能な状況であれば、それこそ反対の意を表明した者に期限を切って調査を任せてもいいだろう。そして、反対した理由が妥当だと判断したならば、問題点を解消する案を皆で考えれば良いのではないだろうか。

なんか対案って個人で作成しなければならないような圧を感じることが多いんですけど、そんなことないよなあと常々思っていまして。
せっかくメンバーが揃っているなら、意見を出し合いながら、よりベターなものを作ればいいんじゃないかな、、という主張でした。

私からは以上です。






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