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健康マインド(心に残る言葉❗)古今亭志ん生「四角い座布団の中にはいくらでも芸が落ちてるんだよ、」             

美濃部孝蔵は1890年、東京神田産まれの江戸っ子です。
徳川直参旗本の美濃部家の家系との事ですが、孝蔵は貧乏暮らしでした。

「貧乏はするもんじやなく、味わうもんだ!」の名言も残しました。
小学校は卒業間近に、素行が悪く辞めさせられ、奉公に出されます❗
1904年に、浅草に落着きますが、酒と博打に明け暮れ放蕩生活で親兄弟の死に目にも会えない始末です。

芸事に興味を持って芸人仲間がてきますが、放蕩は続き、左の二の腕に般若の刺青を入れたのは、この頃です。
そんな放蕩の末にたどり着いた落語の道。

1910年頃には三遊亭朝太と名乗って前座になります。

若い頃の志ん生

三遊亭圓菊で二つ目昇進。
1918年には古今亭門下に入り金原亭馬太郎。
1921年 「金原亭馬きん」を名乗り真打に昇進しました❗
翌年には結婚して落着きます。
長女・次女・長男(金原亭馬生)が誕生。

順調な様ですが、この間に夜逃げして業平橋に行ったり、師匠に楯突いて落語界で居場所を無くし、講談師に転身したりします。
謝って落語界に戻っても生活が苦しく、当時人気者だった柳家金語楼の紹介で柳家三語楼門下に入れてもらう。

そこでも(師匠の羽織を質入れしてしまったり)落語家としての腕はあったが、愛嬌がなく周りと上手くできません。結果ず〜と前座扱いで生活は、ず〜と苦しく楽になりません。
身なりが悪く、酒臭いので(うわばみの吐き出され)と寄席でも軽んじられ良い席は回って来ません。

1932年 三代目古今亭志ん馬を名乗り、少しずつ売れて来ます。落語家に入って20年以上たち、40歳を越えていました。
1934年 7代目金原亭馬生 を襲名。

1938年 次男 強次(後の三代目古今亭志ん朝)が産まれる。
翌年1939年 ついに、五代目古今亭志ん生襲名。16回目の改名でした。
50歳を越えて神田花月で独演会を始めると、大勢客が詰めかけましたが、本人は(話をじっくり聴いてくれる客ではなかった!)と話ています。暗い世の中になって来ますからね。

1945年(昭和20年)戦地への慰問芸人を取りまとめた松竹演芸部の仕事で、満州に渡る。そのまま終戦!
帰国できずに、生死ギリギリの生活を経て1947年帰国できました。
一緒に満州に渡った、六代目三遊亭圓生との両人を歓迎するため、金馬、文楽、権太楼で(五人会)を開催注目される。
その後は芸も脂が乗り、人気が沸いて来ます、志ん生57歳。

破天荒な人生そのものが落語と言われた志ん生

寄席に、ラジオ番組にと売れっ子になった志ん生、人形町末廣での独演会を催し 八代目桂文楽と並び東京の落語界の大看板となります❗

昭和の名人と呼ばれた二人

私は志ん生の落語には間に合いませんでしたが、志ん生が遺した二人の天才落語家には楽しませてもらいました。

1955年 楽屋で 長男「金原亭馬生」・「古今亭志ん生」・次男「古今亭志ん朝」

長男 金原亭馬生は、これからという54歳で、亡くなってしまいます。
父親志ん生とは芸風が違い、几帳面な人の良さが表にでて、人情噺が名品と言われています。

十八番の「ざる屋」(道を聞くなら、急いでる人に聞いたほうが良い)の枕から無責任な男に味がありますが、本人は満州から帰らない父親の代わりに一家を支えていました。

次男 古今亭志ん朝は、父親と兄の良血を継いだ上に独特の色気があり、36人抜きで真打になった勉強家でもあり、役者としても舞台ばえする華やかさを兼ね備えた落語界の至宝でした。
惜しむらくは63歳でなくなり、父親志ん生享年83歳には息子達は敵わなかった。

志ん朝と志ん生

その分 父親志ん生の言う「四角い座布団の中にはいくらでも芸が落ちてるんだよ、」の教えは息子二人には行き届かなかったと思います。

もっと、座布団にある芸を拾って、開花させて欲しかったと思います。

その意味でも心に残る言葉です。 





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