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君は「古明地こいしのドキドキ大冒険」を知っているか

独特なタッチの絵と手書きの文字によって描写されるキャラクター、無造作に描かれる暴力と流血、エキセントリックに飛躍するこいしの狂気。そこに映し出されるのは唯一無二の世界である。
のみならず、本作は錯雑に練られたストーリーライン、時に深く掘り下げられる登場人物の内面、無造作なようでいて洗練された演出、単なるグロテスクを越えて描き出される被虐美と、エンターテインメントとしても一級のものである。
そこに表現される狂気はエンターテインメントとしての演出なのか、あるいは作者自身をすら蝕む性質のものなのか見解が割れることもしばしばであり、そのあたりを指して「いわゆる本物」とも形容される。本物のなんなのかはここでは問題にしないし本物とはひとつではない。
中略
とびっきりのハートフェルトファンシーをどうかあなたに

ニコニコ大百科より引用

古明地こいしのドキドキ大冒険とは、2009年から投稿されている
東方手書き劇場の金字塔である。
作者は7年間失踪していたが今年復活した。(2024年1月追記)

前置き

https://www.nicovideo.jp/watch/nm5308088

これは2008年に総勢26名によって作られた東方合作動画。

当時はこの動画専用のコミュニティ(東方手書き作者コミュニティ)も存在した。思えばこの頃が東方手書き界隈の全盛期だった。ニコニコ動画では、合作企画が頻繁に行われ、絵師同士の交流も盛んだった。Pixivやニコニコでは、「サムネで特定余裕」つまり、絵柄で誰が作者か判別できるくらいあなたの絵は魅力がありますよ、というような文化もあったし、個人の作家性が重んじられていた時代だった。

今やまどマギの脚本家として有名になった虚淵玄もエロゲ作家の出身だったし。奈須きのこさんも同人から世に放たれた人間。竹箒や竜騎士07や上海アリスなど、サブカルチャーの鬼才はコミックマーケットを舞台に活躍してきた。コミケの頒布物は少数発行なので、その分割高になりやすい。赤字は当たり前で、下手したら爆死して大損する中で、何の稼ぎにもならない同人作品を毎年のように世の中に出し続けていた作家たちは、やはりタフだったのだと思う。

逆にそれほど骨が折れることをしていると知っているから、わたしはどんな拙い作品でも、正直腹が立つような嫌いな作品でも、同人をやっている全ての人間のことを尊敬している。書き上げただけですげえことだから。

その昔はエロゲやゲーム業界自体が、ほとんど同人と地続きだった。基本的にエロゲの会社は数名のスタッフによって立ち上げられ、作品制作も少数のスタッフで行われるので、それぞれの作家が自分の個性を発揮する余地があった。そこに資本が絡めば商業になり、絡まなければ同人~みたいなことで、あまり違いはなかったような気はする。

しかし活動の場はコミケからSNSに移り、良くも悪くも市場は開けた。虚淵玄、博麗神主ZUNなど、その時代は、作品よりも、作者の名前こそが看板になっていて、作品に"人格"があった。つまり、誰が作ったか、どんな思いで作ったか。かつては、頒布物は立ち読みはともかく、特にゲームは購入しないと中身がどんなもので気に入るものなのかわからなかったので、以前遊んでみて良かった作品と同じ作者の物を買うということが重要な指針になっていた。今や、アニメも絵もほぼ無限に莫大なコンテンツがネットやサブスクで無料で見られるので、作者がどうとか作画は誰がやったとか気にする人はいなくなった。ソシャゲみたいなのが主流になったのもある。

だが、私は商業作品よりも同人作品の方が好きだし、ゲームは基本的にインディーゲームか好きなブランドの会社で作られたゲームしかやらない。勿論、商業メディアの方がクオリティも高いし面白いに決まっている。
だけど一人で絵から物語まで全てを作り上げる同人作家たちが、いかに野心を持っているかを知っているのでどうしても結局同人の方を気に入ってしまう。「作り手なんて誰だっていい!」と言うのなら、AIに書かせたって変わらない。最近は、作品は好きでも作者サイドには興味がない人が増えてきて、悲しい。まあ割とコアな趣味なのかもね、こういうのって。

同人の泥臭さと物語の哀切の中で、彼は何思う

こいドキはそんな同人において本懐とも言えることを成し遂げたと言えるだろう。

こいドキの絵を見て、はっきり言ってこの絵は下手だ、
という人もいるかもしれない。プロットが支離滅裂で、結局何を言いたいのかわからなかった、という指摘もあるかもしれない。何を以て絵が上手いとするかはともかく、たしかに王道な「絵の上手い」人ではない。

ではプロットが素晴らしいかというと、それもまた、場面の盛り上げ方は上手いが整理はされていないという答えになる。

このようにこいドキを、絵が上手いとかプロットが上手いとかそういった要素で解剖していくと、まるで海水を採取して潮の満ち引きのメカニズムを解明するような無意味さがある。こいドキの本当の魅力はそんなところにはない。三十八万キロ離れた月にこそそれはある。

わたしたちがこいドキにここまで惹きつけられる理由は、
前述した通り、絵は決して商業作品並に上手ではない、プロットが整合的な訳でもないが、だからこそこの作品は、

自分にも作れるかもしれない
絵やお話が上手くなくても作品を作っていいんだ
それをネットに投稿していいんだ

という勇気を与えてくれることであり、
それが創作の一歩を踏み出すきっかけにさせてくれるのだと思う。

自分より遥かに上手い人に憧れて創作を始める人もいれば、これなら、自分にもできるかも知れないと思える人を見て創作を始める人もいる。後者の場合、作品そのもののクオリティーや巧拙より、作者の直向きな愛に感銘を受けて始めることが多い。こいドキは後者で、だから、「創作を始めたい」「だけど拙い作品をネットに上げて大丈夫だろうか」と心配している人たちの背中を押してくれた。

7年間の波紋

これは数十名によって作られた海外の合作企画。
なぜ海外でもこいドキが人気なのかというと、有志の人間がyoutubeに字幕をつけた動画をアップロードしていたからだ。まあ無断転載だが、そうでもなければ逆にこいドキが海外に知られることもなかっただろう。当然、字幕を書いたのは有志の人間である。わたしもこいドキの英語字幕を見たのだが、安直な直訳ではない工夫された翻訳だった。東方関連の翻訳は、神道や仏教など日本特有の概念が登場するため結構難しい。

もはや洗濯船氏の認知しない所で、こいドキの影響は広がっていた。
彼が失踪している間にも、盛んに三次創作が作られていたのである。
中には、作者が失踪したため未投稿となっていた、最終回9/9話を自己解釈で作っている熱心な海外のファンもいたほど。
思えば、東方、二次創作であるこいドキ、有志による翻訳、それによってこいドキを知った国外の人やそして当然国内の人による三次創作や、こいドキに触発されて創作を始めた人たち
このレールの最初から、最後まで、全て同人なのだ。

話は逸れるが、2017年にドキドキ文芸部(DDLC)というゲームがアメリカで制作された。これはフリーソフトとしてネットで公開されたので、日本人もプレイすることができたが、いかんせん公式から日本語翻訳パッチがなかった。そこで、英語と日本語のマルチリンガルである有志たちが、DDLCの魅力は日本国内にも伝えるべきだと考え、discode上に翻訳サーバーが立ち上げられた。この翻訳チームには百人程度の方々が翻訳に携わった他、パッチを作るためのプログラマも参加し、「非公式で」日本語翻訳パッチが完成され配布された。当然ながら、彼らは全員無償で翻訳に携わった。その後、翻訳の甲斐あってDDLCは日本国内でもようやくその衝撃を轟かせることになる。

↓その後ファミ通がDDLC翻訳チームにインタビューをした記事

↓実際に翻訳の際に使われたスプレッドシート。一文毎に原文とその翻訳が区切られており、英語にそれほど自信のない人でも、一文からでも翻訳に参加することができたものと窺える。

お堅い商業メディアであれば、他人の作ったものに勝手に翻訳をつけたり、改変したり、転載したりといったことはご法度だろう。
しかし同人においては、作者だけが作品を形作るのではなく、むしろ作者は最初の震源を作るだけで、ファンが作品を完成させていくものなのだと印象付けられる。
むしろ、作家とファンというのが境界なく渾然一体に存在している稀有な世界が同人だと言ったら良いだろう。

東方異形郷の作者、寿司勇者氏も、
こいドキに影響されて作品を生み出したと言う。

作者寿司勇者トロ氏は、学生時代、勉強の息抜きで視聴を始めたこいドキに強く衝撃を受け、こいドキのような作品を創りたいと、東方異形郷のストーリーを組み立てたと言う。
その後、東方異形郷の独創的な絵柄と作風で人気を得た寿司勇者トロ氏は、「紅ずきんの森」「BLACKSOULS」「BLACKSOULSII」などのゲームソフトの制作に関わるなど、精力的に自身の創作活動を続け、ネット上で支持を集めて続けている。
実は、わたしも学生時代に東方異形郷を視聴し、そこから数珠つなぎでこいドキを初めて知った。個人的にどちらも好きな作品なので、二人の絡みがあることは嬉しい。
実際、こいドキに憧れた寿司勇者トロ氏は、後にこいドキと肩を並べるほどの東方ホラー手書き動画の作者になる。

おっと、忘れてはならないのが、作中を印象的に彩った、平沢進の「パレード」だ。実はここにも含みがある。

平沢進はネット上の無断転載をある程度黙認していた音楽家だ。

あまり皆に語られることではないが、テレビメディアに出演しない平沢進がなぜここまで有名になったかと言えば、「無断転載」という闇の大きな勢力があり、平沢進の「無断転載曲」を聴いて平沢進のファンになったという人がかなりの割合でいるからだことはもはや無視できないだろう。だからこそ彼は、自身を「ステルスメジャー」と自称する。
公のメディアでメジャーではないが、実際にはネットという闇の中で、水面下で多くの人に知られているからステルスなメジャー、なのだと。
この平沢進のステルスメジャーというさもありなんな造語が、面白くてわたしは結構愛用しているのだが。

<以下、インタビュー記事より抜粋ー>

平沢
 というのもネット上でのバリューが獲得できたからですよ。
―― それで驚くのは、平沢さんが今の若い子に知名度があることですよ。テレビよりニコニコ動画を見ているような層は、いろんな人のカバーやMAD動画なんかを通じて知るみたい。すっかり「ヒラサワ」がネットに根づいたというか。
平沢 それはおそらく「平沢を商材としてガッチリ押さえている機構」が私の背後に見えないからでしょう。ここはある意味ポイントです。音楽の「資本主義と相容れない性質」をある程度、体現できているということです。このポイントは私と観客とのコミュニケーションの「通路」だと思っています。それを嗅ぎとったユーザーがガンガン平沢を素材にする。そこから先は黙認ですよ。……あっ。
―― って、そんなこと言っていいんですか。
平沢 もう言ってしまったので。でもこの暗黙の了解は質の高いコミュニケーションですよ。ここでユーザーが悪意を持てばそれは崩壊します。現在の絶妙なバランスには、しばしば私も驚きますよ。加藤賢崇氏※が「自分は観客として、80年代のP-MODELは観客が育てたという自負がある」と言っていたけど、今ネットの中でそれがまた起こっているようですね。

https://ascii.jp/elem/000/000/484/484998/2/

自分が自分の音楽を育てたのではなく、「観客が育てた」という自負はなんとも謙虚で、同人の在り方を体現している。

―― 平沢さんがやれているのはどうしてだと思いますか?
平沢 私がなぜできているかと言うと、体質。たとえば80年代のインディーズというのは、収益が大前提ではなかった。コミュニケーションのための音楽であって、収益は後から結果として付いてきた。それを体験しているからね。今のインディーズはメジャーへの登竜門のようなものだよね。このインディーズも、おそらくもう壊れているでしょう。次のステップの、メジャーが壊れてるんだから。
―― ライブハウスがインキュベータの機能を失ったのと同じですね。
平沢 ライブハウスがにぎわっていた頃は、客が「俺たちがP-MODELを育てたんだ」という意識を持っていた。それは嘘じゃないと思うんだよね。その後、それ(ライブハウスにおける観客とミュージシャンの関係性)をビジネスモデルと見なしてしまったがために、壊れてしまった。
 だから、その中で育ってきたミュージシャンは、それ以前にあった「結果として生まれた収益構造」が、体感として分からない。せっかくインターネットの中でコミュニケーションが生まれているのに、次にどうしていいか分からない。なぜかと言えば、そこにビジネスモデルがないから。そういうことじゃないですか?
―― コミュニケーションと音楽が断絶しているということですね。音楽を消費する方法はよく知っているのに。
平沢 あ、そういえば私は80年代からフリーウエアだったかも知れない。P-MODELはワーナー・ブラザーズからのデビューだけど、どんな小さなミニコミ誌、数人のサークルでしか読まれないミニコミ誌でも、しっかりとした動機が見えれば取材を受けていたからね。
―― それは良く覚えていますよ。あれは今じゃ考えられないですよね。
平沢 私はそういう(80年代インディーズ的な)体質を持っているので、何の作為もなく、この流れの中でどこに自分の身を置くのかを分かっている。ということなんじゃないでしょうか。

出典同じ

こうして見ると彼が洗濯船先生と同様、根っからの同人クリエイターだということがわかったような気がする。平沢進のステルスメジャーとは、
今では異形郷や様々な創作の「元ネタ」となり、
密かにわたしたちの心を打ち続ける異才・洗濯船先生の生き方とも重なった。

総括

こうやって外堀から洗濯船氏に関するものを埋めていって、今ようやく洗濯船氏を論じるのだが、
こいドキの最終的に凄かったことというのは、
物語に作為性がなかったことだと思う。

作為性を、「人が作ったと感じさせるもの」という意味で解釈したら全く違ってくる。
こいドキはむしろ、人に作られたものであることを一層感じさせてくれる同人作品だ。
しかし作為性という言葉は、ここでは、作者が物語にテコ入れしたり、都合の良い奇跡を起こしたり、解釈を一つに強要してくるといった、われわれを白けさせてくる全ての"メタ的なこと"を指すことにしよう。

そういったものはこいドキにはなく、物語そのものが作者の手を離れて独り歩きしていった印象がある。もちろん独り歩きという言葉はたいてい悪い意味で使われるように、こいドキもだからこそ作者の手に負えない作品になったし、実際失踪したのだと思うが。
しかし、庵野秀明にとってのエヴァがそうだったように、作品というのは作者の手元を離れて作者を呪いつつも、だからこそ途方もない物語としての共感を生むのだと思う。

こいドキ第8話は、エンタメとして私のお気に入りで、BGMが挿入されるタイミングや展開が本当に好きで、
最初はやはりこいドキというのはエンタメとして作るつもりなんだろうと私も思っていたしそうやって楽しんでいた。
しかし、こいドキが本当の魅力を持つようになってきたのは最終回○/9カウントになってきてからだ。

その辺りになってきて明確に私もこいドキの変化を感じたし、
最終回8/9を見た時に第8話よりこっちの方が愛すべきだと確信した。

作者の手を離れた物語。その物語が持っている力というのは底知れないもので、今回は洗濯船という人間から、こいドキという怪物が生まれ、われわれと、そして洗濯船氏自身をも呑み込んでいったのだと思う。
少なくとも私はそれで幸福だ。
こいドキがなければ私は自殺していた。

帰ってきた洗濯船


今年はゆめにっきの二十周年があったり、倉橋ヨエコが復活したり、まどマギの完結編映画の公開が予告されたり、わたしの中で時が止まっていた名作や伝説が雪解けのように蘇っていくかのようです。
ずっと「雪」だった洗濯船さんのアイコンが、様々に変わり始めたので、やっと冬が終わったんだなという印象を受けます。

ファンとして一番嬉しいのは続編の公開が期待できることよりも、あなたの生存が確認されたことです 無理せず自分の創作を続けてください。

「インディーゲームはね、作る人のためにある。」  ZUN

https://touhougarakuta.com/article/indieliveexpo2020-zun-talk/

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