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友達がいないことについて

友達は多い方が良い。親友は財産。

昭和的価値観?の親に育てられた世代である私にとって、とても苦しい現実と葛藤して生きざるを得なかった。そもそも友達を作る以前に、私は私自身を持て余していた。日々、訪れる現実をどうにか生き抜くことで精一杯だった。

別にいじめられているわけではなかったけれど、親友と呼べる友達はずっとできなかった。そして、そんな自分を心から恥じた。

幼い頃は、空想の世界へ逃避した。空想の世界では、何にでもなれた。
クラスのリーダー的存在。勉強ができて一目置かれる存在。お笑い担当。美人。ハキハキ意見が言える子。ちょっと不良。優しく理解あるパパとママに育てられたのびのびとした子。足が速い。

もちろん全て、友達は多くて人気者。お互いの全てを理解し、受け入れ合う友達、親友がいる。私の本音を聞いてくれて、支えてくれる親友。あ、うんの呼吸で分かりあう。永遠の友。ああ、どんなに毎日が楽しいだろう。

空想の世界に入れば入る程に、友達や親友のハードルは上がってゆく。自分で勝手に作った友達像に縛られていく。そして、そうではない現実が、より私の中でクローズアップされていった。

思春期に入ると、何とか理想の友達関係を築こうと無理をし始めた。面白おかしく振る舞ったり、明るく楽しいキャラを演じた。根暗で陰気な自分をできるだけ出さずに、ノー天気な明るさで押し通そうとした。違う自分になりたかった。なろうともがいていた。

当然、そんな無理は続くはずもなく、いつもグッタリと疲れていた。そりゃそうだろう。自分と向き合うこともできず、間違った努力を繰り返しているのだから。明るくノー天気キャラのはずが、友達のちょっとした反応に敏感になり、勝手に傷ついた。些細なことで、ポキッと折れやすくなっていった。もちろん、その場ではノー天気にしてたけれど。

自分のことも他者のことも受け入れる余裕がなかったのだと、今なら、分かる。自分を分かって欲しい。自分を理解して欲しい。自分、自分だった。

そして、そんなにもこだわる自分さえも、私は受け入れることができなかった。どうしたら良いのか分からなかった。受け入れることも、与えることもできずに、いつも孤独だった。

今、私には親友はいない。友達もほぼいない。
ただ、孤独ではない。

それは、〜ねばならない、〜するべきだという呪い、執着から少しずつ距離を取れるようになってきたから。

そして、友達も自分も、私の中で区別するものではなくなってきているから。全てが繋がっていることに、ようやく、ようやく気がついたから。

私は私の役割を果たしていこうと思う。今ある関係性を寿ぎ、未来からの問いかけに応えていこうと思う。

こんな私でも、どっこい生きてる。何とかなるでしょ。そんな大人のしなやかさとしたたかさ、を持ちながら。


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