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正しく傷つくことについて

「人は現実を、自分が見たいように見るし、自分が捉えたいように捉える」

「自分」というフィルターがかかっている以上、それは当たり前のことだ。では、その「自分」と何なのか?

身体、感情、思考、過去の記憶…。

私が「自分」と思っているものを分解してみると、あまりに曖昧だ。身体も、感情も、思考も、過去の記憶も、全てが移り変わっていくものなのだから。
 また、それらは独立してあるのではなくて、円状になっていて相互に影響し合っている。例えば、身体が変われば、感情も思考も過去の記憶も変わっていく。過去の記憶を変えれば、感情も思考も身体も変えていく。ちなみに、ここで言う身体が変わるとは医学的に健康かどうかではなく、身体のあり方のことである。
 
 さらに「自分」は単体で存在するものではない。人や物、社会との繋がり、関係性があって初めて「自分」という認識が生まれる。たったひとり、山の中や無人島にいたら、「自分」を意識する機会は希薄になるだろう。他者がいてこそ「自分」が意識される。規模の大、小はあれ、人は共同体を欲し、その関係性において個を意識する。言い換えれば、その時に所属する共同体や、他者との関係性においての「自分」でしかないということである。
 
 時間軸から「自分」を考察すると、「現在の私」が「自分」を認識していることも忘れてはならないだろう。今、現在の私が認識できる範囲での「自分」とは、過去の私や未来の私とは違う「自分」を生きているということである。今までとは違うし、今後も分からない。絶対的なものでないということである。私、は常に移り変わる。私が変われば、すなわち「自分」も変わっていく。
 
 例えば、今、何かに正しく傷つけなくても、今、何かと正しく距離を取れなくても、今、何かに正しく怒れなくても、今、何かを正しく悲しめなくても、苦しまないでほしい。絶望しないでほしい。
あなたは、私は、今の「自分」を生きているだけなのだから。脆弱な、不安定な今、の自分でしかないのだから。絶対的なものではなく、移り変わっていく今、の自分でしかないのだから。

以上が、映画「ドライブ・マイ・カー」を観た私が感じ、考えたことである。




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