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サレ妻から溺愛妻へ〜1.普通に幸せだと思っていた

1.普通に幸せだと思っていた
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たとえドン底からでも、どこからでも、自分らしい理想の現実は創ることができる!!という理念のもと、心の寄り添いサポーターをしています。
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2度の不倫を味わったドン底から、現在では望む関係性を再構築。子供たちとの関係も良好で、2拠点生活を謳歌する溺愛妻になるまでの道のりを綴っています。
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これが、読む人の希望の光になれば!と願って公開しますが、前半は苦しかった記憶になるので、人によっては救われない気分になるかもしれません。
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7話に分けて掲載していきますので、どうぞ最後まで読み進めていただき、決して人生は捨てたもんじゃない!と感じていただければ嬉しいです。
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これまで明かしてこなかった私のストーリー、そっと覗いていってくださいね♪



普通に幸せだと思っていた


26歳でサラリーマンと結婚して専業主婦となり、2人の子供を授かった。

夫は毎晩仕事と飲み会で帰りが遅く、実家も遠い私のワンオペ育児。

毎日3人でお風呂に入り、娘を抱きながら片手で息子の髪を洗い、湯船に浸かる暇もなく、自分の体は適当に流して着替えさせる、そんな慌ただしい日々。

寝ている間に帰宅し、寝ているうちに出勤するパパに会えるのは週末だけだった。

いつも我慢させているお兄ちゃんと2人でお出掛けをした日、1歳の娘は私を探して延々泣き叫んでいたらしい。帰ったら、娘は濡れた顔のまま床で、夫は背中を向けてふて寝していた。


春から息子は5年生、娘は小学校入学という時に、夫の2度目の中国駐在が決まった。

出発までのひと月、私たちは何度も話し合った。

中国で暮らした経験があったからこそ、日本で暮らせる幸せがわかる。それでも父親と離れて暮らすより、日本を出ても家族揃って生活する方が子供達にとっては良いはずだ、何度も確認して出した結論は、家族4人で行くということだった。

到着した日、迎えの車を降りると物乞いに囲まれて娘はすっかり怯えてしまった。

美味しい飲茶で喜ばせようと行ったレストランでも、客の大声に更に怯え、ほとんど残して帰宅した。

街に慣れるように散歩をしたら、ドリアンや臭豆腐の匂いが鼻をつき、走って家に帰った。

そんな習慣や言葉の壁はあったけれど、次第に暮らしにも学校にも慣れ、友達や先生に恵まれて、2人とも元気に育っていった。

5年が経って長男が中学卒業を迎える。まだネットも不十分で、受験のシステムもわからない不安の中、一時帰国をしては情報を集めたり見学をしたり、二人三脚で志望校を決めて受験に臨んだ。

日本人学校は義務教育だけだから、高校受験のタイミングで帰国する人が多い。私達もそれを選択して母子3人で先に帰国することにした。

息子は異国での受験勉強を頑張って第一志望校に合格した。早くに決まったので謝恩会の幹事や企画準備を親子で引き受け、感動的な会を開くことができた。

中国に来てすぐ、日本でミニバスを続けてきた息子のためにバスケットボールサークルを作り、毎週末コートを予約して引率し、5年間バスケをさせてあげることができた。帰国する時、息子から「お陰でこの5年、バスケ愛が冷めることはなかった。中国に来て良かったよ」と感謝の言葉をもらい、あの決断は正しかったと思えて嬉しかった。思えばこの頃が母親としてのピークだったかもしれない。


その半年後に夫が正式帰国した正月のこと。偶然にも夫に女性がいることを知ってしまった。

年末から毎晩飲んでいた夫が酔ってリビングで寝てしまい、明日が仕事始めなのに目覚ましのセットは大丈夫なのかと、無造作に置いていたスマホのアラームを探していたとき・・・LINEのメッセージが飛び込んできた。中国語で「ダーリン」というような呼びかけ。

読まずにはいられなかった。



つづく



第2話はこちら

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