虐待は幅広く、呪いである
虐待と聞くとそういったことに無縁の人たちは《親に殴られること》を一番に思い浮かべると思う。
虐待とは様々で、殴る蹴るはもちろん虐待ではあるけどそれだけではない。
心無い言葉を投げかけることや性行為やそれに近しいことをしたり親による宗教観念の押し付けや洗脳、必要最低限の教育や生活をさせないネグレクトなど、こういった全てが虐待に含まれると私は考えている。
そういうふうに思い浮かぶ虐待の全ては主に身体的虐待、ネグレクト、心理的虐待、性的虐待の4つに分けられるそうだ。
だからといってこのなかの1つだけが自分に行われてるわけではない。
虐待が4つに分類されようとも、受けている自分には何がどういった虐待かわからないし受けているあいだはこれがネグレクトだとか心理的虐待だとは考えつかない。
殴られることは身体的虐待だけど、大きな声で罵倒されればそれは心理的虐待。受けている自分にとって全部同じ虐待でしかないけど、周りはそれを分類するし虐待は種類があって一つじゃないから複雑だと言ったりする。
正直、分類なんてどうでもええんよ。
子どもにとっては「助けてくれ」でしかない。
分類は虐待を発見したのちに遠い遠い第三者が勝手にしよることだと思うんで、本当に当事者はなんの事だかって感じでもある。
ケアをするのにきっとその分類が役に立ったり虐待をする親になれなかった大人を犯罪者として罰するのに必要なのかもしれないと思うけど、私にはこの分類分けがそんなに大事かいまだにわからない。
そう思う私は虐待を受けていたわけで、当時は周りの大人にSOSを出したが学校の先生や近所の交番の警察官、誰も助けてくれなかった。
今ほど虐待が犯罪だと思われていない時代に産まれ育ち大人になった私はもうすぐ30歳を迎える。
そこで『30歳までに解きたい呪い』と題して綴っていきたいと思いnoteを始めることにしたわけでして。
ただ呪いと言うと禍々しいし大袈裟に聞こえるし何を言ってるのだコイツはと思われそうだけども、これは虐待をした親にかけられたものだけを指すわけではないしスピリチュアル的なことでもない。
あの時助けてくれなかった大人がいたように周りの考えや言葉たちが自分を雁字搦めにしてしまうそういう環境というのか影響全てが、今の自分自身にさえ及ぼす強い呪いだということ。
虐待をする親になれない大人や助けてほしいという言葉を聞かなかった振りをする大人たちによって私にかけられた呪いが30年生きた私にどう影響しているか、私自身が整理してあわよくばこの呪いをどうにか解いて普通の人になりたいだけだと思う。
普通からはほど遠い生活をしているあの頃の何も知らない私を語ると無知と罵る人もいた。
私はそんな無知で能天気だった自分を悪いとは思わないし嫌いにもなれない。
ただ、あの時知っていればなーとかこうしていればなーみたいなことは人並みに想像してしまう。
役に立つことをここに綴れるわけではないし虐待から逃れられる術も私は知らない。
こうして虐待という言葉で気持ちを書き起こしていると、自分がされてきたことが虐待だったと見つめて直してしまうことで正直しんどくなるくらい私は弱い人間である。
虐待を受けていたあの頃、それが虐待だとも知らないまま、当たり前の日常だと信じて疑わず、よその家庭もこんなもんだろうと何故か思っていた。
そんなわけないのに、何故か感じていた違和感に目をつむっていた。
あの頃、ちゃんと目を開けていたら何か変わったのかと考えるけど私にはSOSを出した大人がちゃんといた。
なんだかんだ目は開いていたはず。ここから逃れようと子どもらしい大人の思い付きはしっかり試したはず。
今のように助けてもらえる社会でなかった当時を恨むと同時に、SOSを無視した先生や交番にいた警察官を私は忘れることはない。
そういう人たちを忘れられないのもある意味、呪いなんだろう。
とりあえず、この人たちのことは後にどういう経緯があったか書き出すとする。
虐待は様々で大人になっても自分を形成する一部になっていて切り離すことが難しくなってしまっている呪いだということを最初に書いておきたかったので、ひとまずこのへんで。