『写真家失格』
荒木経惟さんの写真集を見るたびに泣いてしまう。『せつなさ』がこれでもかというくらいたっぷりと散りばめられているからだ。まるで呼吸をするがごとく、いろいろな事象を撮影し記録するというのが写真家の定義だとしたら、、、、自分は間違いなく『写真家失格』である。大事な瞬間や愛おしい時間。それらを記録してシェアするなんて自分には信じられない。大好きで愛おしかった猫が亡くなる直前の姿にカメラをむけることはできなかった。ひょっとしたらそれは『自分だけの記憶』にしたいエゴがあったからだと思う。それだけに荒木さんの著書『愛しのチロ』を読んだときに泣いた。人目を憚らず号泣した。嘘にまみれた商業写真の世界にどっぷりとまみれていると何が現実でなにが嘘なのかよくわからなくなる。
僕が思うところの天才写真家、荒木経惟さんと篠山紀信さん(僕は篠山さん撮影のレコードジャケットを偶然見てカメラマンを目指した)さんの二人がNHKの番組で対談したことがあった。荒木さんの奥様が亡くなって棺の中に入っている写真を撮影して発表したことに篠山さんが苦言を呈した。僕は偶然どちらの気持ちも理解できた。虚実と真実の間を世に発表したかったであろう篠山さん、目の前におこるすべての事象を発表する荒木さん。自分の大切な存在が瀕死の状態でもカメラをむけることができる荒木さんに篠山さんはヤキモチを焼いていたのではないかと勝手にそうおもった。『良い写真っていうのは記録写真』だとおっしゃっていた篠山さん。やっぱり写真って記録することが重要なんだ。これは未来に残しておきたい!本能的に思うことがらに素直にカメラを向ければいいのだと。でもそれを発表できそうにない自分はやはり『写真家失格』なのだ。荒木さんが著書の中で『瀕死のチロちゃんにカメラを向けることに躊躇した』という一文に救われている。そうか呼吸をするように写真を撮って発表してるわけじゃなく葛藤して悩んでそれでも発表しているんだなと。そうかそうだったんだ。