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他人軸人間
自分は、自分として生きている。と言えない。
30年以上生きていても、言えない。
自分って何だろう、と。
モラトリアムというか、いわゆるアイデンティティの確立の時期ではなく、なぜ今なのだろうと。
「自分って何だろう」なんて悩みをもつのは、
遅すぎるのではないか、と。
でも。この「遅すぎる」っていうのも、
他人と比べているわけで。
最近よく半生を振り返るが、今回も振り返ってみると、「自分だけ」で決めたこと、やったことは無いと思う。
ピアノを習うかどうか。お箸の色をどうするか。クリスマスにお願いするものをどうするか。レストランで注文するものをどうするか。
幼稚園くらいのころから、
「これを選んだら親がどういうか」
「これを選んだら、こう思ってくれるだろうか」
なんてことを考えて選んでいた。
選んで決めたのは自分だけど、自分じゃ無い。
小さい頃から、他人軸人間だった。
成人したあとは、
いままで付き合ったことのないタイプの友人もでき、知らない世界を見せてもらった。インドア派だったが、そのときは、アウトドア派になった。明るい人生になって、ちゃんと楽しんでいた。
でも今思い返すと、
「これを楽しんでおけば、いろんな世界を知っている人だ、明るい人だ、と思われるかも」
と、見えない誰かのことを意識していた。
今、言葉にすると、すごく変だ。
でも、それが私の当たり前だった。
よく思われたかった。
それが当時の本音だ。
何でそう思うようになったんだろうと考えた。
中学時代、とても嫌な経験をした。毎朝、朝が来たことが腹立たしくて、枕を殴っていた。枕ごめん。簡単に言えば、悪口を言われ、避けられる、みたいな感じだ。
そのときは相手も子どもだったし、仕方ないと、今は、思っている。
でも、嫌だった。他人から傷つくことを言われたり、されたりしたのは、嫌だった。何か聞こえてくるたびに、心臓あたりが痛くなる感じがした。
自分は存在してはいけないんだ、汚い存在なんだと自分を卑下するようになった。苦しかった。
やっぱりそういうとき、親には言えない。
なぜ親に言えないのかというと、私の場合、強がっていたからだった。心配させたくない、もあるが、「自分はこんなことは何とも思っていない。」と、自分に対して言い聞かせていたのかも知れない。だから、口に出せなかった。親だけじゃなく、誰にも。早く卒業したいと思っていた。
そんな経験が、
「他人によく思われたい」
「他人についていけば大丈夫」
「他人がやっていることをやっていれば、変に思われない」
そんなふうに思うきっかけなのだと思う。
他人軸人間のできあがりだ。
しかし。
私は、ここ2年間に、大きな挫折を経験した。
全ては、「自分がない」ことで起こったのだ、と分析した。そして、本当にそうだと思う。
他人がやっていることをやる、同じことをやる、他人が何を思うか考えて行動する。
別に、他人にとって、迷惑じゃない。(ことがほとんどだと思う)
でも、他人軸で動くと、失敗したとき、うまくいかなかったとき、大なり小なり、絶対にどこかで他人のせいにする。そういうときだけ、「まぁ、自分で決めなかったしな」と思うことになる。
「自分がどう思うかが大事」といつか、誰かが教えてくれた。当たり前のように感じるが、できていない。
私の一つの癖で、YouTubeで動画を観ているとき、絶対にコメント欄を開いてしまう。
「この動画、他の人はどう取っているんだろう」
そんなこたぁどうでもいい
「私が」どう思うか、それだけで決めよう。
評価を人に任せず、自分で楽しみ、自分で悲しみ、自分で怒り、自分で判断しよう。
他人軸人間から卒業する。がんばれ、自分。