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「人間は考える葦である」について

 今回はこの言葉から始めていきたいと思います。言わずもがな、これはフランスの哲学者パスカルの言葉です。この言葉の意味は通常、人間は葦のように"か弱い"が考えることができるという点で偉大な存在だ、と解釈されています。葦という、か弱い植物で人間を表現することにより考えることの偉大さを引き立たせ、それができる人間を賛美する表現だと考えられています。しかし、文芸評論家の小林秀雄は次のように解釈します。

パスカルは、人間は恰(あたか)も脆弱な葦が考える様に考えねばならぬと言ったのである。人間に考えるという能力があるお蔭で、人間が葦でなくなる筈はない。従って、考えを進めて行くにつれて、人間がだんだん葦でなくなって来る様な気がしてくる、そういう考え方は、全く不正であり、愚鈍である、パスカルはそう言ったのだ。

 つまり、人間は脆弱な葦という分際をそのまま持って物事を考えなければならず、それを超えて物事を考えることは正しい考え方ではないということです。こうなると随分意味が違ってきて、人間賛美どころか戒めの言葉に聞こえてきます。この意味で捉え直した時、私にはパスカルが18世紀の産業革命以降に起こった人間の性質の変化に対して警鐘を鳴らした言葉であるように思えてきます。

 産業革命以降、人々は技術革新の恩恵を受けて物質的に豊かで便利な生活を享受するようになりました。この急激な物質的豊かさの成功は、人々の心に、人間が時代を経るごとにアップグレードされ、より大きな存在に近づいているという錯覚を植え付けたと言えます。スペインの哲学者オルテガも技術革新が人々に「無制限の自己の膨張」をもたらしたと表現し、これを近代以降の人間の心理的性質の1つと考えました。

 次は現代においてこの「無制限の自己膨張」がもたらしたものが何なのかについて考えていきます。無制限の自己膨張は、言い換えれば自分があたかも何者かであるか錯覚してしまうということです。この錯覚は昨今のインターネットの発展により助長され、結果としてSNS等では身の丈似合わない言説で溢れることになっています。さらに、これがSNS上に留まる分には問題ないですが、集団・組織化すると集団心理も相まってより過激化し、刑事事件やテロに発展することさえあります。葦であることを忘れて考えてしまった結果が昨今のニュースを賑わせてしまっていると言えるでしょう。

 さて、パスカルの有名な言葉のイメージがガラッと変わったのではないでしょうか。どの解釈が正しいかは今となっては分かりませんが、人間賛美の言葉だと喜ぶのではなく、身につまされる耳が痛い言葉だと捉えることの方が、学ぶことが多いでしょう。


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