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アンコール 15 「キス」

 この日は、何かが違った。

 金曜日だと言うのに、会社から帰宅した僕は、自室にシロがいたことに思わず驚く。

 とっくにバーは開いている時間で、いつもだったならば彼女の姿と彼女の楽器はこの部屋にはなく、自分は1、2本ほどビールを空けて、気が向けばあのバーへ向かう。

 今日だってそのつもりで、近所のコンビニでビールと夕飯を買い込んで、もういないであろうシロの分を気遣う頭などなく、何も用意していない。

 「どうした?今日は、バーが休みなのか?」
 「ハイリブ、モンゴルへあたしを連れて行く気になった?」
 「…そうだな、僕がもう少しまとまった休みがとれれば、行けるのかもしれないな」
 「そう。気持ちが進展したのね。お礼にキスをしてあげる」
 「え、舌が二つに分かれているんじゃないのか。蛇だろう、シロは」
 「ご期待に添えるようなキスはしないわ、安心して」

 はじめて会った時に着ていた白い半袖のワンピースは、やはり透けていて下着が見えてしまう。
 上着を着ろよ、と声をかけたけれど、彼女は小さなテーブルの前にあぐらをかいている僕の側まで来ると、頬に軽く、ちょん、と分厚く赤味のある唇をくっつけた。

 真夜中に触れられる、手のひらとは別のもの。
 その感触の、なんと甘美なことだろう。
 僕は夢のように、うっとりとしてしまう。
 これがもしも唇へ与えられたぬくもりだったのならば、或いは。

 「…何かあったのか?」
 「今日は演奏も歌もお休み。楽器を置いて行くわね。飲んでくる」
 「わかったけれど、上着を着た方がいい。外は寒いし」
 「必要ないわ。行って来るわね、ハイリブ。カナカナと泣く虫のように、バタつかせた羽に釣り針をひっかけた白い鳥が、伝えられずにいた言葉を結局簡単に告げるのよ」

 ― よく、休んでね。

 シロはそれだけ笑顔で言って、本当に馬頭琴を僕の部屋の定位置、一度落っこちたことのあるベッドと収納棚の間にケースごと置いて行った。

 片時も離さないとばかりに、どこへ行くにも必ずと言って良いほど手にしていた楽器だと言うのに。

 彼女は、自分の声だけを持って、行ってしまった。



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