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「植物人」について(環境人類学からの考察)

「人間の条件」

近代の科学技術化のなかで
「人間の条件」の自然性への
人びとの感度は鈍くなり
他者との相互的交渉がなくなり
人間の言葉が
現実へと迫る力を失って
空疎になっている
 
「人間と自然のかかわり」
「人間世界の外に広がるエコロジカルな世界のリアリティ」
「他者の世界との相互的交渉における詩的言語の可能性」
そして「エコロジカルな共存や共生とは何か」
 
進化的および個体史的な時間において
過去の偶発的な出来事と
親密さを共有してきた他者たちの
構造的 行動的 テクスト的な痕跡
 
──Tは「自分よりも背丈の高い葦(自然)に囲まれていることで 身体が外に向かって同化していく 溶け込んでいく それにより感覚がひとつになっていた」と述べている
 
補記
日本の古称で美称して豊葦原中国、略して葦原国、葦原ともいう。天つ神が天上の高天原より葦の群生 する地上の世界をさして、こう名づけたことに由来 する。『古事記』や『日本書紀』など日本神話では、神の子孫が人間、人間の祖先が神、という漠然とした話だけが存在していて、明確な人類(人間)の起源は見られない。ところが「青人草(あおひとくさ)」 という言葉で何となく人間がいるような感じのもの はある──竹田恒泰(2011)『現代語 古事記』学研パブリッシング

「植物人」

公園のなかの葦原
 
アートによって生物層と人類層の
ふたつの歴史の境界線が入り混じり
書き換えられてゆく世界
 
人間の言葉が現実へと
迫る力を失って空疎になっている
 
現実の地域社会である「場所」との
関係性を深くみつめて
 
植物と人間の境界を引き受け
同じ生物としての「根と路」を

人新世を思考する

取り返しのつかない亀裂は 過去二世紀間の産業発展が成し遂げた 短くも桁外れなこの瞬間のなかでわれわれの背後に迫っている
 
「環境危機からの脱出というつかの間の希望を捨て去ること」
人新世はそこにある
 
自然との関係をもっとも重視し 人びとの生活を環境の諸要素との緊密な相互関係の総体として把握するなかで 社会 宗教 価値 意識 行動などといった人間存在のあらゆる側面を解き明かそうとする多彩な展開
 
「他者の世界を説明することではなく 私たちの世界を多元化すること」
人類学はそこにある
 
みずからの全身体を感覚器/メディウムとして 世界を改めて感知・経験することを通じて 「他者」を理解しようとする試み
世界の構造や人間生命の状況への認識自体の革新
 
「文化の多様性や権利 条件の平等性 人間と非人間の排他性を取り払う紐帯 無限の希望 質素な消費 謙虚な干渉のなかに生きること」

2024年10月5日改篇

「植物人」を思考する(キューガーデンにて、2019年)

人類史のなかで文明により自己閉塞してしまった
人間世界の外を考える
 
人間世界と文明をもたない外の自然世界とのかかわり
 
植物の多彩で 巧妙な工夫に満ちた生き方
自然世界の「弱くて強い生き物」
 
植物になり 植物の多様性になり
「植物のように生きる」こと
 
人間と植物の協働 人間と植物のもつ文化・社会の重ね合わせ
 
(人類学)思考を強いるものとの出会い
「他なるもの/他者」に触れること
 
──Tはキューガーデンの植物との出会いのなかで
「土壌と植物たちが命を捧げて主張したいことを自身を媒体として全身で賜る気分であった」と
 
人と複数種の他者たちとが
人間を活性化させる生態へと潜り込む

人類学とアート

「人間の条件」の事物性を「人間ならざるもの」の領域の広がりのなかで 見つめ直すにはどうしたらよいのか
 
「人間ならざるもの」とのかかわりのなかで エコロジカルな領域のなかで 生きているという現実
 
人類学はさらに「人間ならざるもの」との境界領域において 両者の境界を問うプロジェクトの一部に組み込まれることで 「人間なるもの」の責任や倫理の範囲を確定する 強力なエージェントになりうる
 
「アートとともにある人類学(Anthropology with Art)」として 越境的な創造を可能にする
フィールド調査による観察 考察 対話 表現形式の検討──アーティストとの批評的協働
 
それはまた 世界の構造や人間生命の状況への認識自体を革新する
 
「客観性」よりも 自身の経験や体験を重視する人類学のスタンスは 私の「個人表現」つまりアートに近づいている

「植物性」を意識化する(奄美大島にて、2019年)

人と植物の感覚器の重なり合い 種の境界をまたぐ感覚の相互変換 および内部変換
──Tは「奄美の亜熱帯林に囲まれた自己の存在を意識することで 植物と同じ世界に参与している」という感覚を体験(萌芽的イメージ)する
 
「植物人(Homo botanica)」はホモ・サピエンス(Homo sapience)から 他種である植物(botanic)を思考する
──ジェンダーを超えた「植物性」を意識化する
 
「植物性」は「植物生」の「心」と書く 「植物人」は現生の人類(ホモ・サピエンス)の変異型 いわば「精神性の進化形」
 
「私は世界を知覚し、感じている。世界への向き合い方、姿勢が、基本設定として定まっている。これが何かを、私なりに理解するためには、私の経験において問わなくてはならない」(T・モートン)

「カミ・植物」(岩舟にて、2019年)

人と植物の感覚器の重なり合い 種の境界をまたぐ感覚の相互変換 および内部変換
──「奥出雲の照葉樹林に囲まれた自己の存在を意識することで 植物と同じ世界に参与している」という感覚を体験(霊的イメージ)する
 
「植物人(Homo botanica)」はホモ・サピエンス(Homo sapience)から カミの宿る植物(botanic)を思考する
──植物は世界を息吹という現実に変えた
──カミ・植物の息吹を意識化する
 
「植物人」は現生の人類(ホモ・サピエンス)の変異型 人と植物とカミの連関 いわば「精神性の進化形」
 
「私は世界を知覚し、感じている。世界への向き合い方、姿勢が、基本設定として定まっている。これが何かを、私なりに理解するためには、私の経験において問わなくてはならない」(T・モートン)

補記
植物は世界を息吹という現実に変えた──息を吐き、息を吸うことは、次のような経験をすることにほかならないからだ。わたしたちを含むもの、すなわち空気は、わたしたちの中に含まれるものにもなり、逆にわたしたちの中に含まれていたものは、わたしたちを取り巻くものにもなるのである。息をするとは、わたしたちが入っていくのと同じ強さでもってわたしたちが入っていくのと同じ強さでもってわたしたちの中に入ってくる環境に、身を浸すことを意味する(エマヌエーレ・コッチャ『植物の生の哲学 混合の形而上学』勁草書房、2019年)

植物性を「想う」

男女の延長線上にある
自由な性の在り方を考察。
 
それは 私が生まれ持った性よりも
ずっと美しかったりする。
 
私たちは いつだって 不完全に漂いながら
性の性質を探っている。
 
「想」の「相」は茂った「木」を「目」にしていると、木と人が交感して、木の生命力で人の生命力も盛んになる。そこから「相」に「おたがい」の意味がある。これに「こころ」を加えた「想」は「木」との相互交流的な意味を「人」の関係に及ぼして「おもう」ことを意味している。そこから「遠く想いを馳せる、思いやる」の意味がある。

植物がいる光景

世界は、間違いなく異なる国や人種や性や世代でできていて、多種多様な価値観が存在する
それが時としてわたしたちを戸惑わせ、距離を生じさせることもあるだろう
 
そう、わたしたちと植物は明らかに異なり、しかし間違いなく同じだ
 
ひとつの風景を共有し、体験する
そこで植物とともに抱く感情が、壁の向こう側を想像する力になり、
互いを区別するものを超えてゆく力になる
 
人は、時間と場所を共有することでともに生きる意味を見つけるのだ
 
人間は、植物がいる光景から未来への大事なことを知る。

(2021年7月7日、10月26日改篇)

平成から令和のレオナルド・ダ・ビンチ

科学と文学と芸術と教育をつなげた
対話と協働のアート
 
人類の進化
それは「植物人」
私が生まれもった性よりも
ずっと美しかったりする
 
科学と科学者と市民のために
「世界をまるごと変革せよ」と
 
洗礼者聖ヨハネ
に導かれ
 
モナーク蝶のように
宙を舞う

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