狂気にならないために書く
バタイユだっただろうか、「狂気にならないために書く」と述懐している。
つまり、バタイユは《狂気を書いた》ことになる。
私は、文章を読む。
或る文章では、形容詞と形容動詞の多弁となって、書き手がそこへ力を入れているのが分かる。それは、端的に、ファシズムだと思う。まさに勝ち誇っている。たぶん、その書き手は、後味が悪くなっていて、食べるご飯も不味くて仕方ない。
そんなことが、私にはよく分かる。
書き手のその《失敗》や《ヘマ》は、存在していないのかもしれないのに、敢えて存在を主張したがることで、説明がつく。
私は、形容詞と形容動詞の多弁に出食わす度に、あゝこれは可哀想だ、と思う。
かつての私を想起させてくれるから。
狂気からの解放としてのエクリチュール…自由を獲得するのに、理由はない。
私たちの過ち、無邪気さからの不必要な品詞の多弁。
形容詞と形容動詞の多弁は、他ならず《考えている》からそうなる。厳密に、狂気ではないし、狂気からの解放でもないから、後味が悪くなる。
物語を読んで、傷つくことも多々あって、私などはポール・モランの『獅子座の女シャネル』には、やられたと感じたものだ。だがモランとしては、やっぱり狂気にならないために書いたのかもしれなくて、そんなことを勘案すれば、私も少しは寛容になった。
教授連とは異なる文章、私はそういう錯乱を目指している。