憧憬としての女性原理
フランスの小説に『姉アンナ』がある。
男性社会が主流の世界を俯瞰すると、まだまだ「兄と妹」の構図が色濃く残る。
南米のノーベル賞作家の小説にも、登場人物の男性が選択として「妹と」とする。無意識に男性は「妹と」仲良くなりたがるものらしい。そこに男性による弱きものへの支配欲が垣間見える。日々わたしたちは男性による性犯罪の報道に接する。「妹と」という無意識の選択が、関係しているのかもしれない。もちろんそこにはタブーとしてのエロティシズムがあるに違いない。
《おとなしくて、可愛くて、優しい》女性を理想とする男性の大半であることに、驚く。まさに「妹と」の結婚が、恋人選びにも具現化されている。結婚してからは、妻を「妹と」として飼い慣らす。歴史開闢以来のこんな愚劣が、脈々と受け継がれている。
女性の不満と憤りは、昨今、頂点に達した。
男性陣へのストライキだ。
他方で、「妹と」結婚したがる男性陣に、狡猾なやり方で迎合する女性も僅かにいて、こちらは政治的には保守派となる。「昼は淑女のように、夜は娼婦のように」と臆面もなく彼女は公言するだろう。
期待したいのは、純真無垢の男性、いつまで経っても男の子みたいな永遠の青年、遠慮なくいえば、鳥の眼を持つ無邪気な男性で、彼は弱き存在だから女性を見つめるときにたぶん姉として敬う可能性が高い。女性の言うことをなんでも聞くし、女性に失態があっても全て赦してしまう。彼は厳密に《女》なのかもしれないし、女性との関係性は超レズビアンとなる。女性原理の彼は申し子となる。
私は古代の美術作品に注目する。キューピッドの絵画がある。宙を自由に浮かんで弓矢を放っている。中央には彼の母親アフロディティーが目を潤ませてうっとりしている。このキューピッド、彼こそ女性原理の申し子なのかもしれない。そしておそらく、画家自身でもあっただろう。
世界の将来、いつのことかは分からないが、ひょっとしたら、「姉」としての女性が地上に満ち溢れるかもしれない。世界のリーダーとして、女性が闊歩する時代が必ずくると思う。そのときが訪れるまで、キューピッドはどんな活躍をするのだろう?