弥助の本能寺の変時の推察

弥助という信長に仕えた黒人が騒ぎになってずいぶん経つが、自分なりに弥助という人物がまとまってきたので、まとめておこうと思う。
まあメモ書きみたいなものと思ってもらえれば幸い。

さて、弥助という人物の評価ポイントとして
侍だったか否か。
本能寺の変の時に戦ったか否か。
といった事がよく争点になっていると思うのだが、人物像に焦点を当てた時は後者の方が見えてくると思うので、そちらをまとめていこうと思う。
ちなみにだが、これから述べるのはあくまで自分の立てた説で、これが絶対の正解だというつもりはない。
他にも筋の通った説はあるし、また色々な説を見れば、自分の説も変わっていくだろう。
これを読むのはすでにこの問題に興味があって資料を見た人達であろうから、細かい引用は省かせていただく。

弥助の本能寺の変での行動

まず、結論を先に書いてしまう。

本能寺の変が起きた時、本能寺に弥助がいたかどうかは定かではないが、いたのなら何とか脱出したのだろう。
わかるのはその後、自分の意思をもって信忠の元へ向かった事。これは信忠の泊まっていた妙覚寺方面と思われる。
だが信忠はすでに二条御所に移動済みであり、明智軍の動きや兵士の会話などから、信忠が二条御所にいる事がわかり、はせ参じようとしたが、そこで御所を包囲中の明智軍に発見されてしまった。
弥助は包囲の後ろ側の部隊の兵と戦うが多勢に無勢、徐々に疲れ、傷ついていった。
そしてついには闘えなくなり、降伏勧告を受けて降伏に至る。
その後の生死は定かではないが、間もなく亡くなったのではないかと思っている。

この考えに至った経緯

よくxで見るものに、落ち武者狩りにあったというものがあったが、落ち武者狩りにあったとしたなら事件の現場ど真ん中である妙覚寺にいるというのは理屈に合わないと考えた。逃亡しようと思うなら明智軍の主力部隊がいる方向には向かわないだろう。
よって妙覚寺に向かったのは別の意図、信忠の元で戦おうとしたと考えた。
また戦闘場所を御所の付近としたのは、イエズス会の記録を「世子の邸へ行きその辺り」と訳しても良いという岡先生の翻訳からである。
妙覚寺はもぬけの殻だったろうし、そこにとどまる理由がない。
御所内で戦ったとしなかったのは、まともに戦ったのなら鉄砲で撃たれて終わるだろうという事を受けて。
当時の軍隊は今のように全ての兵が銃を装備していたわけではないと思われる。
銃は高価だし、長篠の戦の時、織田徳川連合軍38000に対して銃は3000丁。銃装備率は10%以下。それも必死にかき集めての数である。
明智軍がどのくらい鉄砲を持っていたかはわからないが、鉄砲や弓という主力兵器は御所攻撃部隊に回した事だろう。
後背部隊の装備はわからないが白兵戦となれば戦えた可能性はある。
またこれは剣道をしていた自分の経験からだが、違う文化圏の武術同士は動きが読めないので、戦いづらい。
そういったところも「長い時間」戦えたことの要因のように思う。
間もなく亡くなったというのはその後の記述がなくなったため。
もし日本の他家に仕えたなら信長の元で仕えた黒人が我が家に仕えたなどの史料がありそうなものだが、ない。
もしかしたらもう一度海外に出たのかも知れない。
日本では黒人は珍しいが、他では特筆して個人が書かれることはなさそうだからだ。
ただ生き延びていたなら、ある程度ポルトガル語、日本語を話せた弥助は仕事には困らなかっただろう。

なぜ弥助という人物が記録に残ったのか

ここからは、各人が記録を残すに至った動機について考えてみたい。
まずイエズス会側の記録だが、本能寺の変を除いて弥助の記述は、黒人を見ようと町は大騒ぎになった。信長は珍しがって黒人を譲り受けた。
ここには、弥助が何をしたといった記述はない。それも当然で、従者が何をしたかなど報告する必要がないからだ。
黒人を見た日本人の反応、日本人の特性、そして信長の反応。これを報告するために書かれたものだからだ。
イエズス会にとって弥助など数ある従者の一人にすぎない。名前も残っていない事から特別視していなかった事がわかる。
また、日本側の資料にも、こんな珍しいものを見られたのは上様のおかげ、上様のそばに珍しいものを見たといってもので、珍しいから記録に残した。
弥助個人の事はどうでもいいのである。
ただし、本能寺の変の記録を残したフランシスコ・カリオンだけは違った。
「信長の死後、世子の邸に行き、長い間戦って刀を差しだし降伏した」
この部分だけは弥助本人の行動が記述されている。
宣教師にとっても自分たちの手から離れた元従者などどうでもいい事のはずなのに、書かれている。
その特殊性について考えるべきであると思う。

なぜカリオンは弥助の行動を書き残したのか。

これは弥助の行動が、カリオンにとってひたすら迷惑だったという点につきると思う。
光秀のクーデターが発生し都が混乱している中、カリオンにとって日本は異郷の地でもあり、その恐怖は相当のものだっただろう。
それは弥助の記述の前後からもわかる。ひたすら命の危険があった事が書かれているからだ。
事件は教会の間近で起きた出来事であり、次々とカリオンの元に事件の目撃情報が報告されていく。
その中で、ヴァリニャーノの従者だった弥助が明智軍と戦っているとの報告が届く。

「明智は、あの黒人とイエズス会が繋がってると考えるのではないか? もしそうだったとしたら、我々も殺されるのではないか?」

カリオンの懸念は当然の事だったと思う。
しかしそんな中、弥助が釈放されたとの報告が届く。

「あの黒人が許されたのだから、我々も助かるだろう。
まったくあの黒人は余計な事をしてくれたものだ」

そんな気持ちの流れがカリオンにはあったと思われる。
とかく、書かれている弥助の行動だけに目が行きがちだが、記録を書いたのもまた人である。
記録を残したカリオンの動機を探る事も大事な事なのではないかと思う。

最後に

ここに書いたこともあくまで現時点での推測で、他の資料を見たり他の説で取り入れられるものがあったりすれば、また変わっていく。
他に説得力のある説があれば、こんな説はポイ捨てする。
俺自身は歴史が知りたいのであって、論破合戦には興味がない。
おかしいところを指摘されれば、固執せずに修正していく。

お互いの主張、考えを合わせて、より良いものに昇華させていく。それが、議論というものであり勝ち負けを競うものではない。
勝ち負けを競うものはディベートという知的ゲームであり、議論ではないのだ。

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