「神様のひとさじ」第十七話
二人が居住区に着いた頃、警報が鳴った。
鳴り響く警戒音に驚き、ラブはヘビに飛びつき、人々が何事かと部屋から顔を出した。
「何?」
「ハジメ、何が起きた?」
『獣が侵入しました』
「何故だ⁉」
コロニーの出入り口は、厳重な扉で電子制御されている。
獣が入り込むなど、考えられなかった。
様子を見に部屋の外へ出た人々に動揺が広がる。今まで、このコロニーの中は、平和だった。殺人事件もあったが、それはあくまで人同士の争いだ。
『驢馬が戻ったのでロックを解除したところ、彼が獣を引き入れました』
ハジメの返答を聞いた者たちが、悲鳴を上げて部屋に戻った。施錠される音が次々聞こえてきた。
「何だと……」
「驢馬、生きてたの?」
『分かりません。ただ、驢馬だと名乗り、驢馬と認証される者が帰還しました。彼の引き入れた獣は、五頭です』
驢馬が獣を連れて戻ってきた。彼の目的は分からないが、人間を食べる肉食獣が家の中に入って来た。平和的な物語が始まるとは思えなかった。
「くそっ、全員個室に退避するように勧告しろ!」
『分かりました』
ヘビは、ラブの腕を掴むと、自室に駆け込んだ。彼は、その足でクローゼットに向かった。
「ヘビ、どうするの?」
「驢馬がどういうつもりか分からないが、侵入された以上、獣は駆除する」
ボディアーマーを着込み、ライフルと拳銃、ナイフを装備した。
「あ、危ないよ!」
「問題ない」
「私も行く!」
何か武器を頂戴、と手を出した。すると、ヘビは掌サイズの拳銃をラブに渡した。
「もし、ここに驢馬や獣が入って来たら、躊躇わずに打て」
「ヘビ!」
置いて行かれる前提の話に、ラブが不満の声を上げた。
「良いか、絶対にこの部屋から出るな。安全が確認出来たら迎えに来る。アダムが来た時だけ出ても良い。それ以外は、開けるな」
ヘビは、ラブに顔を近づけ、強い眼差しを向けた。
「わかったか?」
ラブにも、自分が足手纏いになることは予想出来た。だが、ヘビの事が心配だった。
答えられずにいると、ヘビの腕輪が鳴った。
『ヘビ、フクロウだ。獣と驢馬は別行動している。獣は散り散りにコロニーの中を走り回っている。殆どの人間は自室にいる。俺は、土竜たちが居る食堂に向かう』
「わかった。俺は、驢馬を追いながら獣を減らす」
『了解』
フクロウとの通信が終わり、ヘビがドアに向かって歩き始めた。
「ヘビ!」
ラブは、ヘビを追いかけ、手を取った。ラブの手が震えている。
「大丈夫だ。この部屋に居れば安全だ」
「ヘビが、安全じゃないよ!」
「獣との戦闘は、何度も経験している。コロニー内だ、此方の方が有利だ」
「でも、でも!」
引き留めようとするラブを、ヘビは少し困ったように笑って、躊躇いながらラブの背中に右腕を回した。
「心配されるというのは……案外嬉しい事なんだな」
「ヘビ!」
ラブは悲痛な声で名前を呼んだ。
(どうしたら、我慢出来るのかな。ヘビを好きって気持ちを。どうしたら、知らなかったフリを出来るだろう。好きだよ、ヘビが……危ない所に行って欲しくない。心配で堪らない!)
ヘビの遠慮がちで、少しも引き寄せない抱擁に、ラブの心が爆ぜた。
離したくない。誰かの為に危険を冒して欲しくない。
ラブは、ヘビの胸にギュッとしがみ付いた。
しかし、時は進み、ヘビの腕が離れ、伝わってくる熱が失われた。
「いいか、大人しくしていろよ」
ラブは、泣きそうな顔で見上げているのに、ヘビは晴れやかに笑って出て行った。
鳩は、必死に走っていた。あちこちに、腕や体がぶつかるが、構わず逃げ続けた。
迫り来る、恐怖から。
「ひぃい!」
笑顔の驢馬が、まるで鬼ごっこのように、鳩を追う。彼の腕には、先ほど畑で手に入れた鎌が握られている。
どうして、彼は生きているのか。
なぜ、走れるのか、なぜ、腕を振るえるのか。
なぜ、なぜ――俺が、殺したはずなのに!
あの日、憂さ晴らしに呼び出され、鳩は驢馬の暴行を受けた。
驢馬は、鳩の胸や腹を殴りながら、言った。もうすぐ、此処をでるが、新しい場所でも俺の奴隷にしてやる。
鳩は体を丸くして、背中を踏みつけられながら、考えた。
こいつ居なくなるのか。
「やられてばかりでは駄目よ。貴方の方が、大きくて強いはずよ」
クイナの言葉が浮かんだ。そうだ、こいつらが皆いなくなるなら、俺が強い男になって、見返してやるんだ。
鳩は、立ち上がった。
「な、何だよ!」
怯んだ驢馬を見下ろし、殴りつけた。
驢馬は、怒り狂い反撃をしてきたが、押さえつけて殴った。
何度も、何度も。
そして、驢馬は動かなくなった。
最初は、酷く興奮していた。湧き上がる歓喜と優越感で、驢馬に口汚い言葉を投げかけた。
しかし、落ち着いて冷静になったら、怖くなった。
こんな事がバレたら、どうなってしまうか分からない。
隠さないと!
鳩は、驢馬を担いで、森へ向かい、滑落しやすい斜面に投げ捨てた。これで、森で迷って遭難したことにならないだろうか、でも、どうしよう、殴った跡が一杯ある。鳩は、しばらくソコで頭を抱え、逃げ出した。
生死は確認していない。
「し、知らない。俺は知らない。俺のせいじゃない」
自分に言い聞かせるように、呟いて走った。
驢馬が武器さえ持っていなければ、また勝てるかも知れないのに。
ずるい、あんなもの持って振り回して。鳩は長い廊下で、驢馬を振り返って鎌を睨み付けた。
「驢馬さん、落ち着いてください!な、何があったんですか?」
鳩が話しかけても、驢馬は何も答えず、ずっと微笑んだまま、驢馬へと走りよってくる。
「ひいい」
話にならず、再び驢馬に背を向けて逃げ出した鳩の背中に、強い衝撃が走った。
「うわああ!」
近くに落ちた鎌を見て、投げつけられた事を悟った。幸いな事に、刺さらなかった。
鳩は、素早く鎌を拾い上げて微笑み、驢馬に向き合った。
「そっちが悪いんだからな!」
鳩は、鎌を振り上げ、驢馬の首に目がけて突き刺した。
溢れ出る血は? 肉を断つ感触は?
「あっ…あっ……あああ……」
悲鳴を上げたのは、鳩だった。
驢馬が、首から鎌を引き抜き、鳩の喉を切りつけた。
吹き出る血に、驢馬の体が赤く染まっていく。
もがき、助けを求める鳩の手は、一本の藁を掴んだ。
「どうして、なんで……」
血の海に沈む鳩の体を、驢馬が踏みつけて先へ向かった。
この蟻の巣を壊滅的に破壊する。使命がある。
驢馬は、コントロールルームの方に向かっている。ハジメから報告を受けて、ヘビは急いだ。途中、一匹の獣を見つけた。獣は、横たわる人間に食らいついていた。
「くそっ」
此方を向いている鳩は、既に絶命していた。
ヘビが銃を構えると、獣が気がついて襲いかかってきた。打ち込んだ二発の銃弾は、獣の頭部と、胸に被弾し、獣は床に叩きつけられた。
ここ数年の間に数を増やしている獣だった。かつて栄えた動物のどれにも当てはまらないが、どこか既視感のある獣だ。猫科のような俊敏さと跳躍力を持ち、前足には、馬科のような硬い蹄を持つ。鋭い牙と顎の力も驚異的だ。
獣の死体の横を通り過ぎ、鳩の側で屈んだ。
「何かで、首を斬られている?」
広がる血の海、鳩の死因は失血死と予想される。
「……何だ?」
鳩が何かを握りしめてた。細い枝か、藁のような何かだった。
『ヘビ、驢馬が此方に迫っています』
「分かった」
もしも、驢馬がコロニーに恨みを抱いて、機能不全に陥るような破壊を行えば大変な事になる。ヘビは走り出した。
「うわぁ」
フクロウの口は、音を出さずに言葉を描いた。
彼は、イルカと合流して、食堂へやって来た。
食堂で、食事を召し上がっていたのは、獣だった。
入り口でライフルを構え、イルカと目配せをして突入した。
ズドン、ズドン、と乾いた発砲音が響き、
トン、トンと弾が床を転がる。獣は悲鳴を上げず、人々が騒ぐ声だけが聞こえてきた。
目視できた獣は、三匹。二匹はフクロウが仕留めた。一匹は、イルカの弾が被弾したが、まだ息があった。
「この、畜生め!」
立ち上がった獣に、土竜がナイフを突き刺した。
「あら、残念」
フクロウの呟きに、イルカは目を剥いた。フクロウは、唇に人差し指を当てて、ニッコリ笑った。
「こっわ」
イルカがフクロウを見て、震えた。
「やぁ、皆さん。大丈夫かい?生きてる人~」
フクロウは、ライフルを肩に掛けて、食堂へと乗り込んだ。
「遅ぇんだよ!何だよこいつらは!」
腕に食いつかれた土竜は、落ちていたタオルを巻き付けた。
「息子さんが、拾ってきた、ワンちゃん?そんな感じかな?」
フクロウは、土竜に手を貸し、タオルをキツく縛った。
「はぁ?」
「驢馬が、帰って来ました。獣を連れて」
イルカが答えた。
「本当に生きてたのか?」
土竜は眉を顰めた。嬉しそうな様子はない。フクロウは、大袈裟に肩をすくめた。
驢馬は、すぐに見つかった。
コントロールルームのドアを破壊しようと、鎌と腕で叩いていた。驢馬の様子は、異常だった。何かに取り憑かれているかのように、一心不乱にドアを叩いている。
「驢馬、やめろ!抵抗するなら発砲する」
ヘビは、拳銃を構え、警告した。しかし、驢馬は、振り向きもしなかった。
「驢馬!」
ヘビは、一歩一歩、慎重に近づいた。何時でも撃てるように。しかし、近づくにつれて、不気味な違和感に襲われた。
「お前、それは……」
驢馬は、以前と違っていた。
人ではない、何かだ。
驢馬ではなくなった、何かが此方を向いた。
「っ!」
彼の首元からは、枝や、藁がとびだしていた。
鮮度を失い乾燥した筋肉の間を埋めるように、絡みついた植物が、ザワザワと蠢いている。
ヘビは、即座に頭を切り替えて、発砲した。しかし、撃ち抜く弾丸に手応えがない。
近づいてくる。
死した生き物が。
咄嗟に、外のサバイバルで利用するライターを取り出して、着火して投げつけた。
途端に火柱を上げる驢馬は、目的を諦めたのか、炎に包まれながら走り出した。
「待て!」
ヘビは、距離を取って追いかけた。火災警報が鳴り響く。それと共に、ハジメが『居室に留まるように』と放送を入れている。
廊下には煙が立ちこめ、スプリンクラーが作動した。
前方、一メートルの視界も悪く、生理的な反応で涙も咳も止まらない。
煤と煙を追いかけた先は畑だった。扉が開くと、中に居たアダムが歩み寄ってきた。
「ヘビ、大丈夫かい?」
「ゴホッ……驢馬、驢馬は!」
室内は、煙いが炎が上がっている驢馬は見当たらない。
「ボーボー燃えてた人が入ってきたから、水かけて、そのダストシューターに蹴り落としたよ」
畑内で発生した落ち葉や動物の糞は、壁に埋め込まれたダストシューターに放り込まれ、収集される。
「……」
ヘビは、外開きの鉄製のドアを開き、中を覗き込んだ。
つい、自分も蹴り落とされるのでは、と後ろを警戒してしまう。
「ごめん、助けた方が良かった?だって何か普通じゃないし、やばそうだったから、つい」
シューターは、五メートル以上垂直に落下し、その後なだらかな傾斜があり、最終処分場所に辿り着く。人の遺体も結局は、そこに落とされる。
「……問題ない」
「あれ、驢馬だったの?」
「ああ、恐らくだが……」
ヘビは、扉を閉め、フラフラと歩き、乾いた地面に腰を下ろした。思わず深いため息が出る。額を押さえ、天を仰ぐ――酷く疲れた。
『最後の獣は、出入り口付近に居ます』
「分かった」
ヘビは、膝に手を乗せて、立ち上がった。
「僕が、行くよ。コロニー凄い事になってるんでしょ、ヘビはそっちをどうにかしなよ。任せて」
「……ああ」
胸を叩いて笑ったアダムが、畑の鍬を肩に掛けて、鼻歌を歌いながら、かけ出した。ヘビは、アダムに銃を渡そうかと、手を掛けて、やめた。
「ヘビ、大丈夫ですか?」
入れ替わるように、イルカがやって来た。
「イルカ」
「煤だらけじゃないですか、うわー、とりあえず洗い流して来たらどうですか?出入り口へは、フクロウさんも向かいました。問題ないと思います。あの人、戦闘になると、ニヤニヤ笑って楽しんじゃう所、どうにかなりませんかね。あ、クイナさんは、土竜と食堂で怪我人の手当に当たっています。ハジメから聞きました。驢馬は処理場にいるって、ちょっと確認しに行ってきます」
「ああ、頼んだ」
テキパキと話したイルカは、忙しそうに去って行った。
自室で待機しているラブは、ドアにピッタリ背中をつけて座っていた。
まだ見ぬ恐ろしい獣が、外で暴れている。その事も怖かったが、その獣を倒しに行ったヘビが心配で堪らなかった。
怖い。
ヘビを失うかも知れないことが震えるほど怖かった。
「早く、帰って来て」
受け取った銃を机に置いて、ヘビの無事を祈ろうと考え、ラブが立ち上がった。すると、向かった机の壁には、花冠が飾ってあった。
「これ……まだ、あったんだ」
ラブは銃を置いて、花冠に触れた。
さっきまでは、気が動転していて、気がつかなかった。
ラブが贈った不格好な花冠は、瑞々しさを失って、色も褪色していた。しかし、まだ捨てられていなかった。ラブは、ヘビがコレを大事に飾っている姿を想像すると、堪らなかった。
「ヘビに逢いたいよぉ」
手を組み、泣きながらヘビの無事を祈った。
火災警報が鳴ったときは、ドアに駆け寄り、開けそうになった。しかし、強制的にロックがかかっているのか、開かない。
「ヘビ、大丈夫なの?」
ドアと向き合って、額を当てた。すると、『火災は収束し、危険はありません。引き続き自室で待機してください』とハジメがアナウンスをした。
一時間も経っていないのに、永遠のように長く感じた時は、終わった。足音が聞こえてきて、ドアのロックが解除され、扉が開いた。
「ヘビ!」
「うぉ……」
「大丈夫⁉怪我は?えっ……泣いてるの?怖かったの?痛かったの?」
ラブは、入って来たヘビの頭を抱き寄せた。
もう大丈夫だよ、とヘビの首にぶら下がるように頭をポンポンと叩いた。
「違う。煙に目をやられただけだ」
ヘビは、むず痒い顔をして、緩んでしまいそうな表情を引き締めた。
「え?大丈夫なの?そういえば、焦げ臭い」
ラブは、腕を離して、クンクンと匂いを嗅いでいると、ヘビはシャワールームに向かって歩き出した。
「こちらは、どうだった」
「何も無かったよ」
「そうか」
ヘビが安堵の溜め息を吐き、少し微笑んだ。
「獣と驢馬は、どうなったの?」
ラブはヘビの周りを、ちょこまかと動き回り、彼をつぶさに観察した。
「……後で説明する。とりあえず、大きな危機は去った。汚れを落として戻る」
ヘビが、洗面台に、銃器やナイフを置いて、服を脱ぎ始めたので、ラブは背中を向けた。背後でドアが閉まる音がして、水音が聞こえてきた。
「よかったぁ。ヘビ、無事だった」
ラブは、足の力が抜けて、目の前のベッドに上半身を投げ出した。
数分もすると、ヘビは濡れた髪のまま、着替えを済ませ、部屋に戻ってきた。
「もう危なく無いなら、ラブも行っても良い?」
ヘビの眉間に皺が寄った。最後の獣も処理された、と連絡があった。しかし、コロニー内の惨状は、何一つ処理されていない。
「駄目だ」
「どうして?」
ラブの綺麗な瞳が、じっとヘビを見つめた。
「とにかく、駄目だ。見るもんじゃない」
「いっ、いっぱい、獣が倒れてるから?」
「……人間もだ」
犠牲者が出たことは、隠しておける事ではない。ヘビは小声で呟いた。ラブの目が、ぎょっと見開かれた。
「私に出来る事があれば、手伝うよ」
本当は、怖かったけれど、こんな非常事態に、ジッとしていられない。自分も皆の役に立ちたい。
「クイナの所に行けば、雑用は沢山有るだろうが、お前、血とか大丈夫か?」
「……たぶん」
目の前で動物が怪我をした時は、とにかく必死で抱き上げて、クイナの所まで走った。あの時も血だらけになったけど、苦手とか、それ所では無かった。
「行って、無理そうなら引き返せ」
ラブは、大きく頷いた。邪魔にはなりたくない。