【実質無料記事!】お城を楽しむ:現存4御殿とは? 何処のどんなお城? 概要と見所は? (川越城本丸御殿・掛川城二ノ丸御殿・二条城二ノ丸御殿・高知城本丸御殿)
こちらの投稿は、「大人散策辞典 ”wiki stroll” ~tomoaki blog~」の "Original の記事" を基本同じ内容で、記載している記事になります。Original の記事では、より多くの写真も含め記載しておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです。
【はじめに】
こちらのページでは、「江戸期以前から存在する『現存12天守』も有名ですが、もうひとつの切り口である『現存4御殿』に焦点を絞り、それぞれのお城の概要を含め、大人散策情報を記載」させて頂こうと思います。
そもそもですが、皆様は「現存4御殿」なるワードを聞いた事はございますでしょうか? お城好き、歴史好きの方であれば、多くの方が耳にした事はあると思い、それぞれのお城に関し、詳しくご存じな方も多いと存じます。日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、三名城、三大山城、三大湖城、三大海城、三大連立式平山城、三大平山城、五大山城、五大山岳城と言った様な、お城のカテゴリ分けが存在しますが、そもそも「御殿」とは『「藩の政庁や城主の公邸を主な目的として、多くのケースは城内に建てられた建物」と理解しており、その中でも、江戸期以前に建てられ、今尚現存している4つの建造物(=御殿)を「現存4御殿」と言う』と理解しております。言い換えれば、「現存12天守が、お城の主役(主役の中の主役は、国宝5城ですが…)」であれば、「現存4御殿は、お城が政治の場であったことを示す、日本に4か所しかない貴重な痕跡」だと思った次第です。
こちらのページでは、そんな「お城が政治の場であったことを示す、日本に4か所しかない貴重な痕跡である『現存4御殿』に焦点を絞り、それぞれのお城の概要を含め、大人散策情報を記載」させて頂きますので、以下ご参照頂けますと幸いです。
【「現存4御殿」とは?】
上記、「現存4御殿は、お城が政治の場であったことを示す、日本に4か所しかない貴重な痕跡」と記載いたしましたが、「現存4御殿はどのお城にあり、御殿のイメージってどんな感じ?」と質問されたら、どの程度の回答が出来ますでしょうか? 私の場合は、それぞれ実際に訪問しておりますが「現存4御殿と言われるお城の名前と所在地」を回答する程度の知識でしたので、まずは、その基本情報から抑えさせて頂きます。最初に以下、現存4御殿の一覧をご参照ください(国宝5天守・現存12天守との切り分けが分かるよう、これらも一覧に組み込みました)。
「日本100名城 & 続日本100名城一覧 + α」の抜粋画像:画像クリックでPDFファイルをダウンロードできます
多数の皆様がご存じのお城の名前が並んでいると思いますが、現存天守は : 12天守、国宝 : 5城、そして現存御殿 : 4御殿 となり、「現存4御殿」がいかに貴重な建造物か、ご理解頂けるのではないかと思います。そしてその具体的な「現存4御殿」は、上記一覧の通り「川越城本丸御殿」・「掛川城二ノ丸御殿」・「二条城二ノ丸御殿」・「高知城本丸御殿」の4御殿になります。ちなみに、高知城には、現存12天守の一つである天守もありますので、現存12天守と現存4御殿が、本丸に同居している日本で唯一のお城になる訳です。
現存4御殿の「川越城本丸御殿」・「掛川城二ノ丸御殿」・「二条城二ノ丸御殿」・「高知城本丸御殿」に関しては、以下の段落で今少し記載いたしますので、先に、御殿のイメージを持っていただく意味も込めて、現存ではありませんが、これまでお伺い致しました御殿(復元)につき記載いたします。それは「名古屋城本丸御殿」・「熊本城本丸御殿」です。
ご承知の通りかもしれませんが、「名古屋城本丸御殿」は、二条城の二の丸御殿と並ぶ武家風書院造の双璧と評価され、戦前には、本丸御殿障壁画が、国宝(旧国宝)にも指定されていたようです。非常に残念な事に、戦火に巻き込まれ、焼失してしまいましたが、2018年には、復元された御殿の一般公開を開始されました。ちなみに、基本、城主(藩主)が居住するのが御殿のはずですが、ここ名古屋城の場合は、「将軍上洛時の専用宿舎」となり、改造され、それ以後、藩主は二之丸御殿に居住したと言われている様です。ただし、本丸御殿を使った将軍は、秀忠、家光、家茂の3人のみが、上洛の途中に宿泊しているだけらしいです…(なんとまあ「もったいない…」と言った感じですが…)。
また「熊本城本丸御殿」は、2016年の熊本地震以降、入城を制限してる認識ですが、前年の2015年にお伺いする機会がありました。名古屋城の本丸御殿に負けない豪華絢爛さで、特にその本丸御殿のなかでも、一番格式が高い部屋といわれている「昭君之間」は圧巻の一言。一説には、『「昭君之間」=「将軍之間」』とも言われている様で、加藤清正が、豊臣秀頼(秀吉の跡継ぎ)を熊本城に迎え入れるために用意したという説もあるそうです。
いかがでしょうか? 個人的印象で恐縮ですが、「名古屋城本丸御殿」・「熊本城本丸御殿」は、「これぞ殿様の公邸・御殿のイメージ!」といった印象を持っている次第です。
それぞれの「現存4御殿」】
上記、「『現存4御殿』は具体的に、何処のお城にあるのか?」、「現存4御殿以外の復元御殿:名古屋城本丸御殿・熊本城本丸御殿で、御殿のイメージづくり」といった内容で記載させて頂きましたが、こちらのパートでは、それぞれの現存4御殿を見て行きたいと思います。なお、御殿が存在するそれぞれのお城に付いても、別記事で詳細情報も記載しておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです。
■川越城本丸御殿
元々、川越城は、享徳の乱(関東における戦国時代の始まりを告げる「鎌倉公方(後に初代古河公方)・足利氏」と「関東管領・山内上杉氏」の戦い)に際し、1457年に山内上杉氏が、太田道真・太田道灌父子に命じ、築城させ、自ら城主となった事に始まる様です。本ブログ別記事でも紹介しておりますが、同じ年に、同じ目的で、同じ様な地形の場所(武蔵野台地のへり)に太田道灌によって江戸城も築城されている事から「江戸城と川越城は『兄弟城』」だと思っているのですが、江戸城と川越城の「江戸時代のつながり」だけでなく、「この生い立ち」から考えても、江戸城と川越城の繋がりの深さを感じるのでないかと思います。
そんな川越城に現存する「本丸御殿」。現存するのは、写真の通り、当時の1/5(5分の1)くらいのエリアの様ですが、1848年 、越前松平家の松平斉典により、1846年 二の丸にあった御殿が焼失した為、本丸御殿の再建が行われたそうです。玄関/車寄せの唐破風は、中々の迫力で、川越城の風価格を感じる物。内部は、「玄関・大広間部分・家老詰所」のみの1/5程度になったとはいえ、現在の感覚では、かなりのサイズ。幕末の川越城を感じる事が出来る空間です。また、家老詰所には、江戸湾警備の相談を模した人形の展示があったり、大広間には、一時期、川越高校の講堂として使用されていたとの事で、天井にはボールの跡があったりします…。言い換えると、二条城二の丸御殿・名古屋城本丸御殿・熊本城本丸御殿のそれと違い、もっと実務よりの御殿の姿が川越城本丸御殿にはあるという印象を持っております。
また、川越は、「蔵の街・小江戸川越」とも言われ、写真の通りの観光地。私達夫婦の居住地でもあるので、喜多院・川越氷川神社等の各種川越観光スポットや、川越のおすすめ大人レストラン、川越にある古墳 / 洋館 / 博物館、川越まつり等の記事も多数別記事で記載しておりますので、「川越城本丸御殿の見学+川越観光」を楽しんでみては、いかがでしょうか?
■掛川城二の丸御殿
静岡県掛川市にある掛川城。以下に記載する高知城と山内一豊つながりで、現在の天守も高知城に似ている事で有名なお城と認識しています。その掛川城の二の丸に「掛川城二の丸御殿」があります。1854年の地震を経て、1861年に再建されたとの事の様ですので、江戸時代が1868年までとするのであれば、本当に幕末も幕末のタイミングで再建された現存御殿になる様です。
個人的な印象は、現存4御殿の中でも最も小ぶりで、藩の格を考えれば当然かもしれませんが、最も地味な印象(失礼だったらすいません…)。しかしそこは、藩の政庁であり、城主の公邸。派手さはなくとも凛とした佇まいは中々のものだった記憶です。また、内部は山内家を押し出した展示をされていました(NHKの大河ドラマ・功名が辻の放送の翌年の訪問だったからでしょうか…)。御殿の再建当時の藩主は、太田氏(太田道灌の流れをくむ一族)だった認識ですので、山内家はあまり関係ないのでしょうが、「掛川城と言えば、山内一豊」なんでしょうか? 掛川城の城郭の基本は、一豊の時代のものですし…。いずれにしても、現在では、国の重要文化財である「現存4御殿」の掛川城二の丸御殿。高知城と似たフォルムの天守は勿論、この「現存4御殿・掛川城二の丸御殿」も併せて見学されてみてはいかがでしょうか?
■二条城二の丸御殿
現存4御殿の主役の中の主役が「二条城二の丸御殿」の認識です。現在見られる御殿は、修理・修繕は重ねているのでしょうが、1626年に建てられた建造物として理解されているようですので、他の現存4御殿と重ねてきた歴史が違います。
二条城と言うお城全体としてその歴史を見てみると、「家康が、征夷大将軍になった場所」であり、「徳川家康と豊臣秀頼が会見した場所」であり(現在見られる御殿はその後に建てられたものですが…)、「慶喜が、大政奉還を決意した場所」と言う理解をしておりますので、二条城は「江戸じゃないのに、江戸の始まりと終わりを見届けた場所」と思っている次第です。
二条城二の丸御殿に目を向けると、建造物その物も豪華絢爛の一言。正門の茅が整った屋根と見事な彫刻に飾られた「唐門」に始まり、菊の紋章が飾られた「車寄せ・遠侍」の外観は、誰もが目にしたことがある二条城二の丸御殿の顔だと思いますし、内部では、狩野派の手による障壁画は圧巻の物。名古屋城/熊本城本丸御殿は、新しい分、金が色鮮やかに感じますが、二条城のそれは歴史を重ねている為か、重厚感を感じてしまい、威圧的な印象さえ感じる感覚を記憶しております。
そして、二条城と言えば、上記にも少し記載しました「大政奉還」。二条城二の丸御殿の大広間にも、教科書にも記載のある「大政奉還の意思を諸侯に伝える慶喜」を表現した展示があります(ありました?)。正直、事実は調査不足なのですが、『大政奉還の意向を、松平容保等の主要人物に、慶喜より(大広間の1つ奥にある)「黒書院」で伝えた後(翌日?)、老中が「大広間」で当時京都にいた諸侯の重臣にその意思を伝えた』と言う話もある様です。言い換えますと、「慶喜が大政奉還を決意したのは、『黒書院』だったが、展示は『大広間』になっている」という事の様です。
正直個人的には、黒書院でも、大広間でも良いと思っておりますが、大切な事は、『ここ二条城は、家康の将軍宣下や家康・秀頼の会見、大政奉還といった歴史的な事象があった空間という事で、取り分け(詳細な場所は別として)大政奉還の意思表示が二の丸御殿で行われて、その同じ空間に足を運ぶ事ができるのは、歴史好きの人にとっては、たまらない空間だ』という認識をさせて頂いた次第です。芸術性が高く、格式も高い雰囲気を感じつつ、上記の様な歴史の大イベントに思いを馳せつつ大人散策できる空間が、二条城二の丸御殿だと改めて思った次第です。
尚、上記の通り、二の丸御殿だけでもお腹一杯になってしまいそうですが、外には天守台もあれば、二の丸庭園もあります。京都の街も大人散策すべきだと思うので、大変かもしれませんが、少なくとも二条城に脚を運んだ際には、二の丸御殿と二の丸庭園を中心に、二条城全体の大人散策と、できれば京都の街の大人散策を実行すべきと思ってます!
■高知城本丸御殿
現存12天守と現存4御殿の両方が残る、日本で唯一のお城。関ヶ原の功で、土佐一国を拝領した山内氏の居城で、前任地の掛川城の現在の天守(天守は復興天守ですが、御殿は現存4御殿の1つです)と似ている事でも有名な認識です。
現在の天守は、江戸中期(1750年位)の火災があった後に、再建された天守の様で、同様のタイミングで本丸御殿も再建された認識です。つまり、250年以上の現存12天守と現存4御殿といった建造物を同時に拝見、体感できるお城が、高知城という理解をしている次第です。
実際に訪問するとその歴史と格式を感じずにはいられない空間です。高知では、幕末有名人(山内容堂や坂本龍馬等)に思いを馳せつつ高知市内の観光も良いと思いますし、桂浜も中々の大人観光スポットだと思いますので、併せて訪れてみてはいかがでしょうか?
【最後に】
以上が、「江戸期以前から存在する『現存4御殿』に焦点を絞り、それぞれのお城の概要を含め、大人散策情報を記載」させて頂いた内容になります。
江戸期からその地にある「現存4御殿」。天守に比べると少し地味な印象もあるかもしれませんが、現存天守が12城なのに対し、現存御殿は4城。単純な比較ではありませんが、貴重な日本の歴史の痕跡だと思っております。有形の物なので、いつかはなくなってしまうのかもしれませんが、今の現存4御殿は、現存12天守同様、日本の宝であることは間違いないので、これからも大切にして行くべきだと改めて思った次第です。
以下、上記紹介しました「各それぞれの現存4御殿を、お城のお内部や周囲の大人観光スポットと共に一覧で把握でき、実際に現地訪問した際でも自身の位置をスマホで確認しつつ大人散策できる地図(Google My Map で作成:以下のイメージ)」については、有料での記載とさせて頂きますが、「大人散策辞典 ”wiki stroll” ~tomoaki blog~」の Original 記事では、無料で開放しています。有料エリアのご購入、フォローによるクリエーターサポート等の応援は、喜んで受けさせて頂きますが、「大人散策辞典 ”wiki stroll” ~tomoaki blog~」の Original 記事と併せてご参照頂ければと思っております。
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