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男性機能の終活 不都合なエンドレスゲーム

セックスの余命宣告

「きょうの硬さ、大丈夫だった?」
「全然元気だよ!60歳くらいまではいけるんじゃない?」

 キャストと肌を合わせた後は毎回、決まってこんな会話が繰り返される。「定期健診」と称し2、3カ月に1度訪れている風俗店での話である。何歳くらいまでセックスできそうかという私のくだらない問いかけに経験豊富でサービス精神旺盛なキャストたちは「60歳くらいまで」とか「あと7、8年」とか実にリアルな数字を導き出してくれる。もちろん励ましてくれて有難いのだが残りの年数に目を向けると何とも言えない寂しさがこみ上げ、さながらセックスの余命宣告にも聞こえてしまう。私の男性機能が役目を終えるその日までにあと何回、セックスできるのだろう、と。

アラフィフが風俗店に通うワケ

 アラフィフのおっさんが年甲斐もなくなぜ風俗店通いを始めたのか。それは3年ほど前にさかのぼる。50歳が近づいていたある日突然、自分はまだセックスできるのか無性に知りたくなった。もうセックスからは10年以上遠ざかっていた。仕事が忙しく疲れているうえに家庭も子供の塾だの受験だので落ち着かずセックスのことなど特別、意識することもなかった。私には20年以上連れ添った妻がいるが、家族全員が同じ部屋で就寝しているため子供が小学生くらいになった頃から夜の営みから遠ざかった。決して夫婦仲が悪いというわけではないし、妻の人間性を尊重しているがただ自然の成り行きでそうなっただけである。決して恋愛や不倫をしたいわけでもない、この年で面倒くさいことはご免だ。手軽に安全に男性機能を確かめるための選択肢、それが風俗店だった。

男性機能の終活とは

 しかしなぜ突然、男性機能を確かめたくなったのだろう。仕事はというと30年近く勤める会社ではそろそろ定年がちらつき始め、自分のポジション、そして定年までの道筋も見当がついてきたし自分の器量もわかってきた。家庭では子供は自立しつつあり残りの人生を心豊かに生きるために、いまその助走を始めるタイミングだということを悟った。そして最も影響が大きいのが病気でこの世を去った親の年齢に近づいてきたことだ。私を取り巻く様々な環境の変化なのか、ある日突然、漠然とした不安の塊が一気に目の前に現れた。心と体の健康、定年後の生きがい、そしてどう人生の終焉を迎えるのか。様々な終活の目次の中に男性機能があった。

風俗店に見る超高齢化

 言い訳がましくなったがそんなこんなで私の風俗店通いが始まった。50代で年甲斐もなくと思ったが、実際、私がお世話になっている風俗店の待合室を見ると同年代かそれよりご年配とお見受けする同志が多い。世は超高齢化社会、2025年には団塊の世代が後期高齢者となるご時世である。風俗店の客層も高齢化していることは想像に難くない。私とて定期健診と称して風俗店を利用しているおっさんなのだ。中高年の男性機能の維持という役割でとらえるならば風俗店はさながら福祉施設の様相を呈している。客は診察かデイケア目的で、キャストは看護師か福祉士かそんな役回りである。健康保険や介護保険を使いたい、とまで言うと悪い冗談である。

あやかりたい元気なご年配

 風俗店に訪れた際、毎回、硬さや回復力について同世代の客との比較を聞くことにしている。この文章の冒頭がそのやりとりである。キャストが60代や70代のお相手をしたことがあると聞けば、そうした元気なご年配の特徴や共通点について聞きたくなるというもの。興味深いことに元気なご年配は太っている体型は少なく、人当たりも大らかで穏やかな輩が多いのだとか。男性機能を維持しているご年配は自己管理が行き届き、心持ちもお若いのだろうと勝手に想像を膨らませている。私もそうありたいと思う。キャストを通じてご年配からバトンを受け取った気になっている。

風俗店通いのシナジー効果

 風俗店に入店したらまず部屋に案内される。そしてキャストと簡単な挨拶を交わし、服を脱ぐ。服と同時に役職や立場など鎧のように装着している属性を脱ぎ捨てるとそこにただの人が現れる。薄暗い部屋の鏡に映った裸の自分の姿を見てそんな感覚に陥る。このあかの他人に全てを曝け出すこの行為が私に大切なことを教えてくれた。全てを脱ぎ去った素の自分に自信が持てるのか。鏡の中の自分の声が聞こえたと思ったら、不安の塊で遮られていた視界がすっと晴れたような心持ちになった。元気なご年配よろしく男性機能の維持と健康管理、良く生きることを体現したい。それ以来、体調管理を意識し食生活に気を配る。身だしなみ、口臭や歯の治療、手足の爪、ムダ毛の処理などもそう。自己管理と体のメンテナンスはキャストへの気遣いでもあり翻って素の自分を客観視する機会でもある。自分に甘えてばかりいた私にとっては風俗店通いが思わぬシナジー効果をもたらしている。

定期検診は一期一会

 さてこの3年近くの定期健診でのべ9人のキャストにお世話になった。実際の年齢は分からないが全員20代前半から30代前半というところだろうか。初めて会った女性と90分、長ければ120分の時間を共にする。単なる接客業という範疇では片づけられないほどキャストの役割は大きい。それは容姿やサービスだけを指さない。30代の頃も時々だが風俗店を利用したことがあったが、その頃は年齢や容姿、サービスによって払った対価の損得を気にする何とも窮屈な記憶が蘇る。しかしアラフィフで訪れる風俗店は一味も二味も違うものだった。キャストの器量や心遣い、肌を合わせてくれたことへの感謝の念が心を満たす。どんなキャストであれ、同じ時間を共有した縁、一期一会の清々しさがはるかに勝る。そして一番の目的である男性機能について彼女の経験から自分の現在地を教わる。定期健診はキャストとの二人三脚でより深みを増すのだ。

セックスの深層にあるもの

 様々な気づきを与えてくれた風俗店通いだが、深まった疑問もある。なぜ男性機能の維持にこうも心を駆り立てられるのだろうかということだ。確かにセックスは嫌いではないが当の私は絶倫でもなければ女性を喜ばせる技術もないし自信もない。だが定期健診を終え男性機能の維持を確認できるとどこかホッとしている自分がいる、あぁまだできると。大袈裟に言うと生きている証を体現できたような、まだ前に進めるような気持ちになる。ひたひた近づく老いの足音から逃れたい、そんな思いが渇望となって現れたような気がするのだ。これはいったい何の追いかけっこか、競争相手は昨日の自分か?

他人と自分のエンドレスゲーム

 考えてみれば私の世代は第二次ベビーブームと呼ばれた。少し世代を広くとれば「失われた世代」、ロストジェネレーションいわゆるロスジェネだ。競争相手が多いものだから図らずも受験では偏差値競争、就職活動では買い手市場の超氷河期、入社してからもし烈な出世レースに巻き込まれてきた。それにバブル崩壊やリーマンショックとその時の社会情勢が加わり、人と比べることや競争社会の中で自分に折り合いをつけるのは日常茶飯事だ。だから多くの負けを経験したいまの自分は「置かれた場所で咲きなさい」の言葉に素直に共感できる。だが時々、思うのだ、そのゲームはまだ終わっていないと。地位や名誉を一枚ずつはぎ取った人間のコアの部分、それを確かめるエンドレスゲームをやっているのではないか。どこかで他人を通じて自分の現在地を確かめているような気がするのである。

後ろめたさの解決策

 さて、ここまで来て肩を付けなければいけないことがある。それは他にもない妻のことだ。身勝手な私の定期検診は全て重要な機密事項であり、墓場まで持っていかねばならない。でも時々、後ろめたい気持ちに苛まれる、この良心の呵責をどう処理すればよいのだろう。この超高齢化のご時世で実に身勝手なこの思考が一般化される日が来ないものだろうか。本来なら妻にお願いして男性機能の確認をすべきである。しかし前述したように私の夫婦関係でそれは難しいのだ。だからこそ風俗店に通うことにしたのだが、この行為はさて社会通念上、理解されるのか、大手を振って語り合える日が来るのか。

男性機能の維持は社会福祉

 せめてこの男性機能の維持の問題をどこかに収めてほしい。では超高齢化時代を支える社会福祉の範疇はどうだろう。寿命や健康寿命が延びているのだから当然、男性機能維持の問題も論じられて然るべきだ。だが妻ではなく風俗店の力を借りて男性機能を維持するという思考は身勝手の誹りを免れまい。でも門前払いするのではなく福祉の端っこに何とか収めてほしいと思う。そうすればただの少し救われる。男性機能を確認するためにアラフィフのおっさんが風俗店を定期的に訪れる。そしてそれは福祉だと自分勝手に論じている。でもそれは大きな声では言えない、名無しの権兵衛としていることにもう一つの本質があるのではないかとも思う。願わくば多様性といういま時の言葉を盾にして許してもらいたい、セックスできなくなるその日まで定期健診は続くのだから。

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