毎日お祈りしているのである
無神論者というわけでもなかったけれど、神様というのはサンタクロースと同じようなものだと漠然と思っていた。
真っ向から否定するつもりはないし、本当にいたらいいな、という気持ちは純粋に持っていたが、その存在を疑うことなく肯定することは出来ないでいた。決め手というか、証明できるものが何もないからだろう。
いたらいいな、と思うのと同時に、神様というのは「自分の良心」とかなり近い意味だと捉えていたようにも思う。
けれどもこの「神々の島」に来てみて、その認識が変わった。変わったというか、意識的に「変えた」。
ここでは毎日毎日そこら中でお祈りを捧げるひとたちの姿がある。道端の大きな樹の下にお社が置かれていたりして、そこには沢山のチャナン(お供え花)や線香、それから丁寧にお祈りをするひとの姿がある。
「熱心に」ではなく「丁寧に」という感じがすごくいいな、と思った。
神様は実在するのかもしれない。少なくともこの島には実在するのかも、というところに行きついた。
そこで私も彼らに倣ってスンバヤン(お祈り)をやってみることにした。神々の島にいるのだから、それらしいことをやりたいと思ったのもある。
お祈りを捧げるのは一箇所ではないのでトレイにチャナンを沢山載せてあちこち移動する。これが地味に時間を食う作業で、初めの新鮮さが薄れてくると正直メンドクサイと思ってしまう日もよくあった。
それでも「メンドクサイ」気持ちも無かったことにして続けていると………気のせいか、勘が良くなってきたような感触がある。
選択肢がいくつかあって、どれにしようかと悩んだ瞬間に「そりゃAでしょ!」と答がスパーン! とくる。そしてそれがあながち間違っていない。
勘が鋭くなることと、神様の存在の有無の証明は全く関係ないようにも思える。
「だけど」という声が内側に聞こえる。
「関係ないこともないかもよ?」という声が聞こえる。
何かを期待しているつもりはないけれど、このままスンバヤンを続けていけば、もしかして未知だった方向へ視野が広がったりすることもあるのだろうか?
メンドクサイと思う日は今もまだあるけれど、今日からはもっと心を込めて祭壇に向き合ってみようかな。
仙人志望の者にはきっと必要な修行に違いないしね。