17年と7カ月、そして21日

これは憎たらしくも愛らしかった、我が家の愛犬、海(うな)へ捧ぐ備忘録である。

2023年3月22日、我が家の愛犬の海(うな)が息を引き取った。17歳と大体8か月という、狆という犬種にしてはまあまあの大往生であった。
1年ほど前に実家を出て一人暮らしをしていた私はこの日、たまたま母にシュークリームいらんか、と声をかけられて、食い気につられて実家に赴いたのである。そうして家に上がって10分も経たない間に、奴はまるで私を待っていたかのように虹の橋を渡った。
ここ1年ほどは老化が進み、7キロと少しあった体重は2、3キロ減り、散歩も出来なくなってほぼ寝たきりで褥瘡が出来て、サマーカット後の毛も生えそろう気力がなくてぼそぼその体。
それでも食べられるのなら、と与えられていた豆腐、鶏ささみの荒いペースト、ニンジンやジャガイモ、カボチャを蒸かしてペーストにしたもの、様々な果物や果てはホットケーキやハーゲンダッツやレディボーデンまでもを、死ぬその日までしっかりと喰らい、シリンジで母手製の経口補水液を飲ませてもらいながらの大往生。
最期には私と両親に排泄を助けられながら、とうとうダメそうだと途切れ途切れになった脈で唐突に私たちに覚悟を決めさせて、吃驚する程あっという間に逝ってしまった。
大往生ではある、それはわかっている、けれどもお前、もう少し覚悟をする時間をくれたってよかったじゃないか。当の昔にお前の死を覚悟していたとはいえ、あまりのことに私はこの日一日、泣くつもりもないのに溢れる涙に困らされることになったじゃないか。

心の準備が未熟な私は心を整理するために、少しばかりこんな恨み言も交えて奴の犬生を振り返ろうと、キーボードをたたき始めた。

この犬が我が家に来た理由は少しばかり特殊で、当時鬱をこじらせて不登校になって自分の世界に閉じこもりがちだった私の遊び相手というやつだった。
犬を飼おうか、という話が親から出た時に、マンションである当家の環境に適応する子がいいと、様々な犬を紹介する書籍を調べたものである。
その中で、吠えない、においも少ない、活発でもないということが書かれていた狆を見つけた。
あまり一般的な犬種ではないけれど、時代劇などで時折出てくるあの白黒でちょっと目玉の飛び出た犬が狆であることは知っていたので、ふさふさとした体毛、おとなしく人に抱かれる愛嬌を想像しては心ときめいてしまった。
そうして周辺のペットショップを回るも、狆、どこにもいなかった。珍しい犬種であることはわかっていたが、ペットショップのアイコンに狆を使っている大手ペットショップでもまったくいないとは思わなかった。
そうして私たちは狆の捜索をネットまで広げ、その中で見つけたのが我が家にくることになった此奴である。
私と姉は辞書を片手にいろんな名前を検討し、海と書いてうなと読ますという無駄にひねった名前を選んだ。が、結局のところその可読性の低さで動物病院の診察券はウナと書かれていたのだからお察しだ。
たしかこいつは長野だったか岐阜だったか、そこらのブリーダーの元で産まれたのだが、我が家は近畿のど真ん中であるので、両親は大津のインターまで奴を迎えに行ってくれた。
私はと言えばその日、当時はまだそこそこ活発だった地域密着型の個人主催の同人誌即売会イベントへ友人と出向く約束をしていたので、帰宅したら犬が来ている、という状況だった。
母曰く、大津のインターの駐車場で籠を開けたらばぴょんと飛び出し、母の胸に飛び込んできたとのこと。その話を何度も何度も自慢げに言われるので、私も迎えに行けばよかったなぁと何度も後悔することになる。
そして帰宅した私が奴と対面した。
小さくてふわふわとしていて、ちょっと目つきが悪かった。それはふわふわとした綿毛のような毛のせいだったのだけれど、なんともふてぶてしい顔をしていたように思う。
当時の体重は1キロ程度、片手に乗せられるほどのぬくい矮躯がうごうごとしているのがかわいらしくて、当時15歳の私は奴に何度もちょっかいをかけた。
当初犬のケージを私の部屋に置いていたのだけれど、この犬、昼夜逆転してしまっていた私の傍では気が休まらなかったようで、きゅんきゅんと夜泣きが酷かった。
結局のところ両親の寝室に連れていかれ、大変悔しい思いをしたのを覚えている。
当時から食欲旺盛で、離乳食としてペットフードをお湯でふやかして与えていたのだが、その時間が待てずに人の足元をちょろちょろきゅんきゅんと大忙しだった。
本当に毛玉がころころ転がるような愛らしい姿だった。もうずいぶんと前のことだから記憶は薄れてしまっているけれど、あの小さな毛玉が後々7キロ越えの恵体になるとは、当時全く思ってもみなかったのである。

家に来た時からトイレトレーニングは完璧。ただし夜中にケージの中をべたべたに汚すほど便が緩く、毎朝母と私は掃除をしていた。母9割私1割程度ではある。
まぁその原因は良かれと思って食べさせていた発酵フードが原因だったのだろうと後々わかってからは、奴は死ぬその時まで快便太郎として生きていた。
少し大きくなってきて歯が生えてくると、痒いのか、両親が結婚した時に買った家具の足をかじり倒して傷だらけにしたり、窓のサッシを噛んで歯が挟まってぎゃん!と鳴いてあぁもうこれで死なせてしまうかもしれないと母に覚悟させたり、去勢手術の際に、ここの歯は後で生え変わってくるからついでに抜いておきますね!と言われた歯が死ぬまで生えてこなくて歯抜けの犬生を歩むことになったりと、まぁこの頃は話題に事欠かない犬だった。
やはり犬も人間も幼い時が一番やらかす生き物だ。奴は自由奔放に生き、飼い主たちすべての手をほどほどの本気で噛んだ。これに怒ったのは私である。
当時様々な情報を仕入れることが趣味だった私は、犬という生き物は兄弟間でこれくらい噛まれたら痛いだとかを学ぶのだと知っていた。なので私は兄弟として、奴に手を思い切り噛まれたとき、手は噛まれたら痛いんやで!と言いながら奴の手を掴み、まあまあの本気で噛んだ。
奴はぎゃん!と叫んで、それ以後、それこそ死ぬまで、人間の手を故意に噛むことはなかった。その代わり私は奴の信用を無くし、一生手に触るのを嫌がられることになった。

散歩のとき、ふさふさと長い尻尾の毛、前足のフリンジ、たれ耳を大きく見せる長い耳毛を風になびかせて奴は闊歩した。
散歩は短くていいって本に書いてあったぞ、お前は一生家に帰らないつもりか、そんなことを思ってしまうほど、奴は散歩が大好きな犬だった。そうして家の中でも元気で、母の靴下やストッキングを咥えてきては廊下でコーナリングをキメてドリフトしながらリビングに戻ってきていたものである。
そんな自由奔放な奴だったが、会う人会う人に綺麗ねぇ、と言われる美犬であった。タマは早々に取ってしまったが、賢かったし血統書もあったから子供を残してやればよかったなぁと、何度も家族で会話した。
左右対称に模様が入った狆が一般的だが、実は狆、片方だけ模様が出ないこともあるし、なんなら両方模様がないことだってある。模様がずれていることもあるし、眼だって酷い斜視の子が多い。
そのことを思うと、狆の標準装備のような斜視もよく見なければ分からなかった彼奴は、本当に狆としては非常に恵まれた容姿をしていたのだ。でかさ以外は。
すらりと長い脚、フレームのしっかりした骨格、腰もシュッと締まっていて別にデブでもなんでもなかったのに、狆の平均体重としてよく聞く5.5キロを大幅に超えた7キロ超え。
そのおかげで可愛がる場所が大きくて手慰みに良く撫でていたら、スマホを弄っていたりすると気配もなく隣に寄り添い、人が無意識に奴を撫でるのを待つという何とも小賢しい犬だった。
大体の場合食後の私がターゲットになっていて、ソファでスマホを弄っていたりすると横にするっと車庫入れをするかのようにお尻から収まり、私が無意識に奴の頭をかいぐりかいぐりとするのを好きなだけ堪能していった。何ならこちらの手が止まろうものなら、膝にそっと手を置いて催促までした。
でも抱っこは特に好きじゃなかった。抱かれると不満そうにため息をつき、もう降ろしてもらってもよろしいか、と言わんばかりに身を捩る。
そのくせ人の後を付いて回るし、家の中が一番よく見えるソファに座って家族全員を睥睨する様はまさに殿様。人間のことを下僕のように思っていそうなその振る舞い、各所でこの犬種が猫のようだと書かれるのがよくわかる。
革張りのいいソファだったが、奴が上り下りするせいでその前面がこすれて傷だらけになっている。このソファも近々買い替える予定をしていたので、今度実家に帰ったときは奴との思い出が何一つないソファになっているだろう。
そうしてソファで私に十分に撫でさせて、食後のデザートタイムを待つのだ。我が家ではよく食後にフルーツを食べていたので、そのご相伴に預かりにくる。
私はフルーツ嫌いなので、なんだったらこいつはこの17年と8カ月の犬生で私の100倍くらいフルーツを食べていったと思うほどである。
1歳を過ぎたころからテーブルになんとか前足が乗るようになり、気付けば奴はひょこりとテーブルの端から頭を出せるほどに大きくなった。今ふと思ったのだが、奴の足がすらりと伸びたのは、テーブルの上を見たいがためだったのかもしれない。狆にしてはえらく美脚だった。
ねだって甘えてなく声が、自分の名前を呼ぶように聞こえ始めたのもこんな時。うな、と呼んでいたけれど、もっぱらうーちゃん、と呼んでいた。どうも奴の口内の形がそれに適合していたようで、何度もまぐれでうーちゃん、と自分の名前を呼んでいた。
それが面白くて、そう言えたらおやつだったり(褒められたことではないが)フルーツだったりを与えていたら、成熟したころには巧みに自分の名前を叫んでアピールするようになっていた。
少々グルメに育てすぎたのか、餌単体では食わず、ささみを裂いたものや豆腐、トマト、そういったものを混ぜてやらないとこれだけ?おかしくないか?と無言で訴える奴だった。
なのでたびたびささみが安い時に大量購入し、ほんの少しの出汁で焚き、それを細かく裂いて一食ずつラップで包んで冷凍していた。豆腐やトマトは味付け無しで人間の分け前を貰っていた。
おせちの時はお雑煮用の大根や金時人参や里芋を味付け無しで喰っていた。
なんとこの犬、3、4歳の頃まで父の飲み残しのミルクティーを毎朝飲んでいた。ほかにもアイスやヨーグルトの最後の一掬いだったり、ロールケーキの外側だったり、普通あげてはいけないものをほんの少しだけ(いや結構たくさん)貰っている犬だった。
よくよく思い返せば相当不健康極まりない食生活であったのに、この年まで特に大きな病気もせず生きられたのだから、こいつは本当に外側だけでなく中側も恵体だった。
まぁ食べ物に関しては、この子は人間よりも寿命が短いんだから、太く短くてもいいから美味しいもの好きに食わせたい、という母の思想が関わってくる。そもそも我が家は食べ事に並々ならぬ執着がある家なのだ。
結果論として長生きして大きな病気もなくすべての体力気力を使い切って充電ゼロの状態になるまで生き切ったのだから、奴はなんとも孝行犬だったと思う。人間の都合のいい解釈である。

若い時から落ち着き払った犬であったが、晩年はそれに輪をかけて落ち着いた犬だった。
飼い主の欲目だが人間のようにモノを考えているそぶりもあり、自分が気分でないときは呼ばれていることに気付いていても来ず、しかし自分の欲望は最優先で、朝になると定時に母を起こした。
それもなんとスヌーズ機能付きで、まずはベッドのマットレスに前足をかけて弱い力で押しながら小さな声でうぅ、と鳴き、それでしばし待ち、数度繰り返し、少しずつマットレスを押す力が強くなり、最終的に大きく押し込みながらワンッ!と吠える。
母にとっては朝寝も楽しめず迷惑ではあるけれど、そのおかげで何度か母も寝坊を免れていたのだからあのスヌーズ機能も捨てたもんじゃなかった。わたしはその被害に遭ったことはない。なぜなら奴は私の事にそんなに興味がなかったので。
奴と私の距離感と言うのはまあまあ独特で、私が前述のとおり鬱をこじらせて引きこもり家に一番長くいたので、互いに空気のような不干渉があった。
私がいるからと特別何もなく、家を出ようが返ってこようが何の歓迎もなく、しかしいなければいないで心細いようだった。
そんな奴は私の気分が大きくぶれて唐突に泣きだしたところで、こいつがおかしいのは元から、と言わんばかりに不干渉だった。こいつ、当初の目的は私のセラピードッグだったはずなのだが、純粋に私より態度がでかくて私と同じくらい食い意地が張っていたので、癒し犬じゃなくて卑しい犬だった。
なので気が触れて奴に強い口調で当たったところでどこ吹く風、暖簾に腕押し。私が狂ったように泣く姿も荒れて険のある姿も、家族の中では奴しか知らないことだった。奴は幸運にも人語は話せなかったので、詳細は文字通り墓まで持っていってくれた。
そんな、穏やかと言うか無関心な犬だった。
少々雑に撫でたり、寛いでいるところに突撃して犬吸いをしてみたりしても、盛大な溜息をもらして胡乱な眼を向けるくらいで大きな抵抗はしない。そんな奴だった。
歳を取って、人間に何をされようとある程度を許容してくれるようになって、狆特有の大きな目がたびたび乾燥したり結膜炎を起こして真っ赤になることがあっても、若い時分は全力で抵抗した目薬も差させてくれるようになった。
そのあとにちゃんとアフターフォローと言う名のおやつがあってこそではあったけれど。
奴はおそらく花粉症であったので、それこそ奴が亡くなったこの季節は毎年普段以上に目を真っ赤にしていて痛々しかったが、亡くなるまでの数年はそれどころじゃないほど1年を通して乾燥していて、目やにが多く、一日に何度も目薬を差して膜を張るほどの目やにを拭ってやっていた。
不満そうな顔でおとなしく目薬を差され、菓子を催促し、忌々し気に犬用クッキーを咀嚼するすがたを覚えている。可愛くねぇやつだな、と思っていたが、思い返せば味のある可愛い姿だ。
あんなに好きだった散歩も、外には出たがるけれども少しずつ距離が縮まっていった。いつもの散歩コース、それよりも一筋手前を曲がる。そんなことを繰り返して、次第になるべく短い距離で、便だけ出したら帰ってくるようになった。
白内障も進んで見えにくいのか、眩しいと目を細めているその顔が翁の面のようだった。あんなに黒々としていた目の周りの模様に、次第に白いものが混じっていく。その模様の輪郭がどんどんぼやけていっているのだって、ふと昔の写真を見返してやっと気付くくらいに、毎日見ていると気が付かないものだった。
いつまでも若々しい見た目だと思っていたけれど、数年前と比べると、格段に白い毛が増えていた。
それでも外で会うほかの犬連れの人たちには、そんな年齢の子に見えない!と驚かれるほどには若かったと思う。容姿が整っていたから余計に。やはりこれも飼い主の欲目だろうか。
夏の暑い時は朝の5時台、夜の9時台に散歩に連れて行ってもらっていた。母に。私も行くことはあったが朝は早すぎて起きておらず、夜は暗いのでどちらにしても若い女一人で外に出せないと母か父と一緒だった。
暖かい季節や寒い季節は、時折夕方の散歩に連れ出していた。出不精の私を奴が連れ出していたともいう。
若い時分から注意力散漫で電柱にぶつかったり路駐していた車にぶつかったりしていたけれど、視力が衰えてからは余計に何度も危うくなるのでリードを短く持った。
何のためらいも無く進んでは溝に落ちたりするので、こいつの自信満々な歩みは信用してはいけない、と心して注視して、やはり自信満々に足を踏み外そうとするのでよくリードを引っ張った。奴は不満げな顔で振り返ってこちらを見ていた。
体力の有り余るときは追いかけ回した枯れ葉も、年を取るとそもそもあまり見えていないのかスルーして歩く。それよりも電柱や道端に長く居座り、嗅覚での情報収集に余念がなかった。
ゆっくりとした歩調に合わせるのがかったるくてよくリードを引っ張って進ませた。折れてくれる時はあったけれど、動かないときはてこでも動かなかった。頑固な爺だった。

17年と7カ月、それと21日。長い長い時間だ。15歳だった私ももう今年で33歳になる。
そんな長い時間を思い返して書き記そうとしたところで、書いても書いてもあれも、これも、と湧き出てくる。
日常過ぎてここには書かなかったことが、もしかしたら一番最初に忘れていく記憶かもしれない。けれども印象深く小生意気に生きた奴のエピソードすべてを忘れることはきっと無いだろう。
虹の橋を渡る彼奴は、きっと私より先に行くであろう両親、特に母の事だけを待つだろう。父が先に行けばなんだお前か、まぁ一緒に待つか、と傍においてくれるだろうが、母さえ来てしまえば、あとはどうでもいいからさっさと向こうへ行こう、と昔のようにしゃんと尻尾を背負って一瞥もくれずに進むだろう。
お前、お前よ、一応お前は私の犬だったんだ。小生意気で小賢しかったお前だけど、きっと行くのは天国だろう、だからちょっとそこで待っててくれないと、私はきっと死んでもお前に遭えないじゃないか。
父と母が行って満足しても、ちゃんと私の事を思い出して、しょうがないなっていつもみたいなおっきなため息をついて、どうか待っていておくれよ。
ずーっとさきになるかもだけどさ、お願いだよ、うーちゃん。

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