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【お題小説】8.固まった絵の具と君の心を解く方法

「青柳くん。今日、部活くる?」
 自分が呼ばれたことはわかったけれど、ずっと聞いていなかった「ブカツ」という言葉が、「部活」と漢字変換されるまで、少し時間が必要だった。
「え。きょ、今日?」
「うん。今日」
 白川さんは、わざわざ昼休みに隣のクラスからやってきて、僕に確認した。どうして突然そんなことを言い出したのかわからず挙動不審になってしまう。

 僕と白川さんは、美術部だ。
 でも僕は、昨年の2年生の終わり頃から、ずっと部室である美術室に行っていない。
 顧問の先生も滅多に部室に行かないし、それでいいのだと、幽霊部員のまま引退するのだと思ってた。
「じゃ、待ってるから」
 僕が答える前に、白川さんはそう言って長い髪を翻した。
 以前の石鹸の香りと違って、ハーブっぽい、甘酸っぱい匂いが漂った。

 「行く」と返事はしてないわけだから、部室に行かず気にせず帰るという選択肢……は、僕的にはナシだった。
 白川さんとは気まずくなってしまって、ずっと話してなかったけれど、でも憎いとか嫌いになったとかそういうんじゃない。
 むしろ逆に近いというか、そういうあれで、つまり、彼女からの好感度をこれ以上下げたくなかったわけだ。

 美術室のドアって、こんなに重々しそうだったかな。
 3年生の選択科目では音楽を取っていたから、授業で美術室を使うこともない。僕は2カ月半ぶりに、藤色の引き戸を開けた。建てつけが悪くて途中で引っかかるのだけれど、少し上に持ち上げるようにする開け方のコツは、まだちゃんと覚えていた。
 クラスの全員が入っても余裕があるほどの広さの室内の中央に、白川さんがキャンバスに向かって立っていた。
 僕の顎くらいまでの身長で、小柄なのに、存在感がある。白川さんがいるだけで、美術室の空気が濃い感じがする。
 声をかけるのは躊躇われて、黙って窓際に寄り、手近な椅子に腰を下ろした。

 変わり映えのない退屈な屋根の群れ。まだ梅雨前だっていうのに、ここずっと雨が降り続いている。
 小雨のうちに帰りたい。でも、なんで白川さんが僕に声をかけたのか、帰る前に聞いておきたい。
 そういえば美術部員って、白川さん以外にもいるんだよな、と突然思い出した。3年生は白川さんと僕だけだけど、ひとつ下の後輩が3人いた。1年生が入ったかどうかは知らない。でもとにかく、後輩全員辞めましたということはないだろう。
 実は教室の後ろで彼らがしゃがみ込んで作業していたりしないか、振り向いて確認しようとして、椅子が床に擦れてズガッと間の抜けた音を立てた。
 驚いた顔で白川さんが僕の方を向く。
「いたんだ。いるなら言ってよ」
 気づいているのに無視されていたらどうしようと心の片隅で不安に思っていたけれど、本気で気づいていなかったらしい。よかった。
「邪魔しちゃ悪いと思って」
「青柳くんだって美術部員なんだから、邪魔も何もないでしょ」
 僕には美術部員の自覚はとっくに薄れていたけど、白川さんにとってはそうじゃなかったらしい。
 駄目だ、ここでにやけでもしたら、終わる。多分、なにかいろいろと。
「に、2年生は?」
 話題を変えると、白川さんは軽く肩を竦めた。
「修学旅行。1年生の子は、今日風邪で学校休みだって。連絡きた」
 1年生、入部していたんだ。
 ……と、いうことは、つまり、部室にいるのは白川さんと僕のふたりきりということになる。
 これは、どういうことなんだ……。
 どうしてそんな日に、僕を部活に誘ったんだ。
 良い方に捉えていいのか。
 もしかして試されてる?あるいは、まさかあの日のリベンジ?
 白川さんは復讐とか考えるんだろうか。いや復讐くらい、基本誰だって考えるか。ちょっと女神化しすぎた。落ち着こう。
 僕は、そっと白川さんの表情を窺った。
 不機嫌そうだったり、怒ったりしてないか。
 不自然にならないように視線を向けてから、気がついた。
 僕は白川さんの怒った顔を見た記憶がない。
 白川さんは穏やかで、やや表情の薄い人だった。でも向けてくる瞳は優しくて、決して冷たい印象を与えなかった。
 白川さんと上手く話せなくなったあの日以外は。

 あの日、「え、それ、どういう意味」とぽつりと呟いた白川さんは、一度彩色までした絵を真っ白に塗り潰したキャンバスのような顔をしていた。何を考えているのか全くわからなくて、怖くて逃げだしてしまった。
 今も、何を考えているのか、さっぱり見えてこない。ただ、なんとなく、怒ってはいなそうだな、と感じた。白川さんが描いている静物画のリンゴ(モデルは模型)が、柔らかく温かなタッチだからそう感じたのかもしれない。
「絵、描かないの」
「え。あ。……ああ」
 突然声をかけられた。絵を、描く。美術部員なんだから当たり前だ。その当たり前のことを今まで思いついていなかったので、焦ってしまう。
「描きかけの絵、準備室に置いてあるよ」
 描きかけの絵?
 ピンときていなかったけれど、曖昧に頷いて、隣の美術準備室に行ってみた。

 背の低い棚に、キャンバスがいくつかしまわれていた。完成したものは右の方、未完成のものは左にと並んでいるようだった。
 未完成の絵をひとつずつ見ていく。
 風景画、静物画、これは……抽象画? いや自画像?
 おそらく後輩たちの絵だろう。見るからに巧いものあり、ダイナミックなものありでなかなか面白い。ちゃんと部活に出ていればよかったかもしれない。
 ひとつ、なんとなくどこかで見た絵だな、と思った。花瓶に差した花が数本描かれている線画で、ありきたりな構図だから見たように感じたのかなとも思ったけれど、数秒後にそれが「描きかけの絵」だと気づいた。そうだった、僕は自分の描きかけを探しにここに来たんだった。
 時間を置いて見てみると、拙さが目に付く。しっかりデッサンの形が取れてるわけでも、構図が面白いわけでもない。ただ、描けと言われたから描いただけ、というのが明らかにわかる。
 最初からやり直そうかと思ったけれど、でもこの絵も未熟ながらも数カ月前の僕が時間をかけて一生懸命描いたもので、それを不意にするのももったいないと思ってしまった。向上心がある人だったら、きっと一からやり直すんだろう。
 でも僕にその気はないし、もしかしたらこんな絵でも、色を塗ったら少しはマシになるかもしれない。
 色塗りの準備をしようと、置きっぱなしだった絵具道具も一緒に、美術室に持っていった。

 さて、ここからどうしたらいいのやら。なんか芸術的なインスピレーションでも降ってきてくれればいいのだけれど、あいにくそんなことは一度もないし、きっとこれからもない。
 とりあえずコスモスだから、ピンク色にすればいいか。
 赤の絵の具をパレットに出そうとした。
「あれ」
 そういえば今までなんとなく赤い絵の具は使ってこなかった気がする。それにこれは、中学生のときに買ってもらったものを引っ張り出して高校でも使っているものだ。
 絵の具はチューブの中で、見事に固まっているようだった。中に入っている手応えはあるのに、まったく出てくる気配がない。
 姉ちゃんが言っていた、頑固な便秘が長引いて入り口のところで固まって余計出なくなる現象というのは、きっとこのこと……。
「どうしたの?」
「うおああっ」
 キタナいことを考えているときに、綺麗な声に優しく包まれると、なんというか、生きててスミマセンという気分になる。
 もちろん僕が悪いんだけど、白川さんは、もう少しタイミングを見計らってほしい。
「びっくりした……」
 ほら、僕が変な声を出したから、驚かせてしまったじゃないか。
「ご、ごめん。絵の具が出なくなってて、その、集中してたから。出そうとして」
「固まっちゃった? 貸してみて」
 白川さんの手にうっかり触れないように、掌の上でぽとりと絵の具を落とした。小さな手がきゅっと僕の赤い絵の具のチューブを握り締める。透明なマニキュアを塗っているのか、それとも磨いただけでそんなになるのか、ピンク色の爪がつやつやと輝いていて、少しドキッとした。
「固まったときにはね、こうするといいんだって」
 そして白川さんは、いったい美術室のどこにあったのか、金槌を持ってきて握り締めた。躊躇なく僕の絵の具に、それを振り下ろす。
 ズガンズガンズガンと、それはもう遠慮なく叩きつけている。思いのほかワイルドだ。
 しばらく叩いた後、絵の具のチューブを掴んで軽く振る。カラカラと、今までかちこちだったものが砕けた音がした。
「これで、水を少し入れて、しばらく置いて馴染ませれば大丈夫。何日か置いたら、また使えるようになるよ。水は少しずつ入れてね」
「あ……ありがとう」
 感謝の言葉を告げてから、首を捻る。
「何日か置かなきゃなの?」
「うん、水と絵の具が馴染むのに時間がかかるみたい。どうせ青柳くん、急ぎで仕上げるわけじゃないからそれでも十分でしょ」
 今まで気にした風もなかったのに突然、今まで部活にきていなかった点を突かれてしまった。
 やっぱり怒ってる? 美術部員として失格って言ってる?
「色塗るのは後にして、違う絵を描いてみたら? 青柳くん、いつも静物画でしょ。違うモチーフにしたら、少し面白いかもしれないよ」
 そういうわけじゃないっぽい。後ろめたいと思ってるから勘繰りすぎたみたいだ。
 白川さんの気持ちを理解しようとして、言葉の裏の意味をあれこれ考えて、なんだかよくわからなくなってきた。
 白川さんも、もしかして僕と同じ気持ちだったんだろうか。

 約2カ月半前。僕は、白川さんが好きだと言っていたモネの画集を買った。普段だったら小遣いは自分のために使って終わるけど、そのときは進級前のお祝いとして、父さんからいつもより多めにくれたから余裕があったし、何より前日白川さんと手をつないだことで浮かれ切っていた。
 学校に持っていって貸すという手もあったけど、せっかく買ったんだから有効活用したかった。白川さんがどんな観点で絵を見てるのか、好きなところはどこなのか、絵を見ながら直接聞きたかった。あと正直にいうと、うちに招く口実として使いたかった。
 僕は、白川さんをうちに呼ぼうとした。ただ、僕は浮かれ切っていて、いつも以上にちょっと頭が回っていなかった。
「モネの画集があるんだけど、よかったら一緒に見ない?」
 そこまではよかった。白川さんも、「え、いいの?」と喜んだ様子だった。

 そこで急に、女子を自宅に呼ぶという行為を不安に思った。普通に、男友達を呼ぶ感覚でいいのか。彼女は変に緊張したり、気を回したりしないだろうか。
 白川さんは気遣うタイプの人だから、手土産を用意した方がいいのかとか、そんなところまで考えさせてしまうかもしれない。
 そんな気遣いは無用だよ、ということを伝えたかった。
 あと自分だったら、女子の家に行くときに「ご家族になんて挨拶すればいいのか」とドギマギして前日眠れなくなるだろう、と思ってのことだった。
「その日は、深夜まで家には誰もいないから」
 だから緊張せずうちにおいでよ、という意味だったんだ。
 白川さんの表情がスッと消えて、「え、それ、どういう意味」と問われてからも、十五秒くらい何も気づかないままだった。
 なんで白川さんは急に態度を変えたんだろう、僕の何が悪かったんだろう。「家に誰もいないから」って言っただけ……。
 自分の発言を冷静に振り返ったところでようやく、年頃の男子が、自宅に女子を招くときに「家に誰もいない」というのはつまり「下心満載です」という意味と取られる可能性がある、と気がついた。
 そこでもし、僕が冷静に対処できていたら、その先拗れることはなかったのかもしれない。僕は、白川さんに軽蔑されたんじゃないかと焦ってしまった。そして
「へ、変な意味じゃなくて!」
と弁解してしまった。
 焦った様子で弁解したらもう、「実は変な意味でした」と受け取られて仕方ない。
 ここまできたら、もう何を言っても修正なんてできる気がしなかった。
 「違うんだって」と否定し続けても信用はしてもらえないだろうし、「じゃあ家に来るのはやめよう」といったら、下心を肯定しているように見られる。
 「実は下心がありました!」と開き直るなんて論外だ。
 いやそもそも、この段階では本当になかったんだ。
 いつかそのうち……という思いがなかったとは到底言えない、というかはい、ありました。あったけれど、それ以上に、見るからに男子に慣れてなくて、手を繋いだだけで恥ずかしがって俯いて、でもそっと握り返してくれる白川さんを大事にしたくて、とてもそんな、急に手を出そうなんて思ってなかった。
 でもその気持ちをストレートに伝えることは、男としての僕の無駄なプライドが許してくれなかった。
 結果、どうしたか。
 逃げ出す、という最悪な手段を取ってしまった。
 そして、もう何を言っても白川さんに誤解を解くことはできないと諦め、それならば沈黙を貫いた方がまだマシだと……逃げてきて、ここに至る。

 僕は今、何を言うべきなんだろう。きっと何かを言うべきなんだ。
 また白川さんの表情をそっと窺ってみる。
 言葉なしに理解し合えるほど、僕たちの距離は近づいてはいなかった。何を考えているのか、やっぱり読めない。

 もしかしたら、時間を置くことによって、白川さんのバッキバキに固まっていた警戒心は、少し解れたのかもしれない。
 でもまだ溶け切ってない。まだ何かが足りない。
 固まった絵の具は、砕いた後、水を垂らして馴染ませる必要がある。
 白川さんの心に必要なものは、なんだろう。

 固まった絵の具の溶き方は教えてもらったけれど、この解き方は、僕が見つけなきゃいけない。
 気がつけば、窓の外の水音が大きくなっていた。雨足が強まってきたみたいだ。
 でも帰れない。まだ帰りたくない。
 この答えを見つけるまでは。


お題はお題配布サイト「腹を空かせた夢喰い」様からお借りしています。

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