継続は力なり~おとなチャレンジ~
続けていれば、きっといいことがありますよ。
合気道部の先輩の言葉
先日投稿した公文式のアルバイト先の教室責任者のU先生からかけて頂いた言葉の中に
公文式では学力を向上させるのではなく、勉強以外のことも含めて何かに取り組むための集中力を養う
だそうだ。
何かに時間をかけて取り組むトレーニングであるという。
好きなことを続けるのは意外と難しい。
ケーキが好きでも毎日ケーキを食べ続けなければならないとなると食傷気味になる。
それでも職業柄必要な人は毎日ケーキを食べ続ける。
仕事はするものではなく、させて頂くもの。
自分の仕事を通じて社会に貢献させて頂く。
だから僕は上司だろうが部長だろうか役員だろうが、そして社長だろうが論理的に誤りがあればエビデンスを示して「正しさ」を証明しようとする。
しかし、その論破によって上層部から煙たがられてしまい、人から見ると冷や飯を食わされている状態なのかもしれない。
組織人として会社の上層部は秩序を重んじる。
すなわち部下は上司に対して楯突くことはあってはならない。
でも上司の太鼓持ちになって間違いを間違いだと指摘しないことはプラグマティックに考えて望ましくないと思う。
すなわち組織の秩序以前に世間の常識から鑑みて、さらに短期的ではなく長期的に考えて正しくないことは是正すべきであり、それは組織人という以前に人間として倫理的な行動をとることができているか、ということにもなる。
先日、こんなことがあった。
懇意にしているブックカフェのお店でコーヒーを飲みながら店員さんと談笑していた時、僕は面白いことを話そうと思って人の容姿を揶揄する発言をしてしまった。
すると、そのお店の店員さんは「店内で他のお客様もいらっしゃるので、人の容姿について話すのはいかがでしょうか」と諭して頂いた。
僕は、店内に他のお客様がいることを考慮せずに軽率な発言をしてしまったと反省しその場で非礼を詫びた。
本当に申し訳ございませんでした…。
自分は面白いと思っていても、それで傷つく人がいるような笑いはネタにすべきではない。
だって、ごく一部の人が悲しむようなお笑いは本当のお笑いではない。
僕がありがたいと思ったのは僕の無礼なふるまいをぴしゃり、と注意してくれた店員さんの存在だった。
自分の発言が不用意だったのかストレートに注意してくれることで、僕は自分の誤りにすぐに気づくことができた。
論理的に考えて自分が間違っていれば、すぐに訂正するのが望ましいと僕は思っている。今回の場合は論理的に考えずとも、小学校の道徳ではないが、「人の嫌がることはやらない」という観点から考えれば当然の帰結と言える。
間違っていることを放置せずに間違っていると指摘することは必要だ。
だって愛想笑いでごまかせば、その場を繕うことはできるものの、また同じような想像力が欠如した不用意な発言をすることによって他の人を傷つけることになるから。
芸術や音楽、文学などの文化はなくても生きていける。
だけど文化は他者のことを慮ったり共感したりするために必要なのだ。
芸術作品とは自分の表現行為であるが、その表現の先に自分の伝えたいメッセージを受け取る他者が存在する。
だから他者に向けて開かれているメッセージを僕らは鑑賞しながら読み取ろうとする。
それによって想像力を育み他者に対する共感する能力を培うことができるのではないだろうか。
いくつになっても学び続けるとこと、間違いをすぐに認める素直な心を磨くためのトレーニングは必要だ。
だから、こどもチャレンジならぬ「おとなチャレンジ」が必要ではないかと思う。
今日も皆様にとって、よい一日でありますように。
そして能登半島地震の犠牲者がこれ以上増えないことをお祈り申し上げます。
動き出さなければ、始まらない。