【独り言】生きる意味は?②
24時間
救急搬送されて、ナースステーションのすぐ隣の部屋へ入れられました。
体にたくさん線が付けられて、ピッピッとモニターが鳴っています。
テレビドラマで見たことあるやつ。
あー、私 重体なのね。
看護師さんが
「出来るだけ体も頭も動かさないで下さい ね。」
と、言いながら新しい点滴をぶら下げていきます。
ベッド脇には旦那さんと、どうやって来たのか3人の子供達。
誰が連れて来たんだろう。
旦那はひと足先に最初の病院へ来ていたし。
てる 「心配かけてごめんね。」
長男 「うん。こっちは大丈夫だから、しっか
り治して。」
そんな会話をしたように記憶しています。
次男と娘は少しの間 病室にいましたが、いつの間にかどこかに行っていました。
後で聞いたところ、
「なんか 怖くてあそこに居られなくて、面会 ルームにいた。」
だそうです。
そりゃそうだよね。
母親が生きるか死ぬかの時なんだから。
長男は こういう時しっかりしていてくれて、実家などに連絡を入れてくれたりしたそうです。
実家の母と姉が、取り敢えず駆け付けてくれました。
私は ずっと意識はありました。
大した話しは しなかったのですが、
「心配かけてごめんね。大丈夫だから。」
みたいな事を言ったような気がします。
子供達と実家の母と姉が帰って、旦那さんが付き添ってくれました。
そのくらいから、激しい吐き気が襲ってきました。
10分おきぐらいに3度程。
お薬で急に血圧を下げると吐き気が来るんだそうです。
吐く時って結構力みますよね。
苦しいし、力を入れたら大出血を起こすのではないかと とても怖かったです。
3回吐いたら スッキリして落ち着きました。
すると、家の事が心配になってきました。
子供達は晩御飯を食べたのか、明日ちゃんと学校へ行けるのか、義母はどうしているのか。
気持ち悪くて吐いていた時は 死の恐怖がありました。
でも、何故かこの時、
『私は大丈夫。死なない。』
と、確信めいたものが、私の中にありました。
何の根拠もないんですけどね。
そばにいた旦那さんに言いました。
「私は大丈夫だから、家に帰って。
子供達がちゃんとお風呂入って寝るか見てあ げて。
明日パパも仕事でしょ?もう帰ってちゃんと 寝て。」
旦那さんは少し躊躇していた様でしたが、帰って行きました。
その方が 私の負担にならないと考えたのでしょう。
一瞬、このまま眠ってしまったら、目が覚めないのでは無いかと思いました。
寝るのが怖くて、頑張って目を開けて モニターと白い天井をずっと見ていました。
それでも 長い1日。
体は疲れていたようで、知らないうちに眠ってしまったようです。
次の朝、看護師さんが病室に入ってくる音で目が覚めました。
(あ、生きてた)
1番最初に思った事です。
よかった。
ちゃんと目が覚めました。
ただ、絶対安静で頭も動かしてはいけなかったので、とにかくひたすら天井を見つめたまま じっとしていました。
時折看護師さんが血圧を計りに来たり 様子を見に来たりするぐらいで、1日ベッドでほぼきおつけのまま、時間が過ぎるのを待っていました。
午後3時を回った頃、看護師さんがやって来ました。
「光川さん、明日一般の病室に移りますね。」
24時間が過ぎたのでしょう。
取り敢えず、ひと山越えた様です。
夕方、仕事帰りに病院へ寄ってくれた主人に、明日病室を移る事を伝えました。
主人にも、病院から連絡があった様です。
『病院から電話が入ると、容態でも急変したかと ドキドキしてしまう。』
と、言っていました。
何とか一命を取り留めたてるでした。
旦那さんは退院するまで、毎日病院へ会社帰りに来てくれました。
直立不動
次の日の午前中、寝ているベッドのまま、ガラガラと病室を移動しました。
一般の病室に移っても、頭も動かしてはいけないことは、変わりません。
病室の天井を見ているだけです。
でも、病室にはテレビが備え付けてあります。
チャンネルのリモコンを枕元に置いて頂き、
テレビを付けて、音だけ楽しんでおりました。
点滴は24時間何種類かを付けっぱなしです。
以前、献血の時に、血管が見つけにくいと記事に書いた事がありましたが、この入院でも、点滴の入り辛い体質(?)を遺憾なく発揮しました。
最初は左腕から入れていましたが、途中で点滴が落ちなくなり、射し直し。
やっぱり途中で落ちなくなり、もう一度位置をずらして射し直し。
やっぱりだめで、右手に変えます。
半日ぐらいで、血管から薬液が漏れて、腕が腫れてしまい、また射し直し。
またまた、入らなくなって、左手の甲から入れます。
手の甲からだと、手が全然動かせなくなるし、痛いんです。
でも、仕方がない。
が、2日ぐらいで、やっぱり薬液漏れ。
最終的に、右手の甲で点滴を入れたのが、最後まで持ちました。
両腕がアザだらけになりました。
数日は頭の向きも 変えてはいけなかったので、腕を動かしたりして無いのですが、どうも注射針との相性が悪いようです。
最初の5日間は、頭の向きも変えてはいけませんでした。
ほとんど直立不動の姿勢のまま5日間。
人間、命が掛かっていると出来るものですね。
リハビリ
6日目辺りから、自分自身で体を動かしたらダメなんですが、ベッドを少し起こしても良くなりました。
自分でベッドの角度を変えられて、初めて病室の感じが分かりました。
今まで、天井しか見ていなかったので。
テレビも音だけでなく、見られる様になったのは 嬉しかったです。
8日目頃から リハビリの先生が病室に来て、リハビリが始まりました。
ベットに寝たまま、自転車のペダルみたいなやつを漕ぐのと、文字を線で繋いだり、数字を見つけたりするリハビリです。
10日目頃から歩行訓練も始まりました。
いや~ 驚きました。
全然歩けないんです。
自分の思う様に体が動かない。
1週間寝たきりになっていると こんな感じになってしまうのですね。
ロボットみたいな歩き方になってしまう。
病院の廊下を数メートル歩くだけでも フウフウと息が切れます。
そこから退院まで、毎日 文字や数字の脳トレみたいなリハ、自転車を漕ぐリハ、歩行訓練、生活訓練でした。
やってみて気づいたのですが、平衡感覚がおかしくなっていた様です。
お風呂に入るリハで、膝上ぐらいの障害物を越えようとすると、大きくふらついて跨げなかったり、何気なく振り返ったりすると、グラッと視界が揺れて、目眩がしたり。
この、振り向き様に目眩が来るのは、いまだに感じています。
テレビなどを見ていて、画面が横にサーっと大きく移動すると、それだけで目眩が起こります。
海辺で、足元の波をじっと見ていると、体が持ってかれる感覚って分かりますか?
あんな感じです。
退院
なんとか無事に色々な機能が動いてくれる様になって、21日目に退院になりました。
頭の右半分の表面や、アゴの右側に、軽い痺れが残っていました。
歯医者さんで麻酔をした後、麻酔が切れてくると 触っているのは分かるけど、なんか変な感じが暫く残りますよね。
あの感じが頭の右半分と、アゴの右側に残っていました。
あ、9年経った今は、ほとんど無くなりましたよ。
車の運転の事を、退院する時に担当の先生に聞いたところ、私の場合は運転OKで、自宅での生活が落ち着いたら少しずつ乗っていいと、許可が出ていました。
これは本当に良かったです。
住んでいる所が 駅もバス停も無い。
1番近い店が1キロ離れた直売所。
1番近いコンビニが3キロ先。
そんな所です。
車が無いと生活出来ません。
だんだん時間を掛けて生活を戻して行きました。
ご飯の支度も、最初の頃は 少しやると疲れてしまって、休み休みやっていたので、3時間以上掛かってました。
そんなこんなで、だんだんと生活を戻していき、今に至ります。
ダイエット
退院時に栄養指導が入りました。
まあ、食生活をしっかりしなさい、と、言う事でしょう。
これを機に、ダイエットを始めました。
野菜を中心に、カロリーも考えて。
毎日のウォーキングも だんだん距離を増やして。
筋トレオタクの息子にちゃんとしたスクワットの仕方を教わったり。
1年半で25キロのダイエットをしました。
や、もともとすごーく重かったので、このくらい落とさないとダメだったんです。
その後ちょっとずつ戻ってきてしまって、5キロ太ってしまいました。
今年に入り、またダイエットを始めました。
ゆるゆると、ひと月半で1キロぐらい落としています。
半年で3キロ減りました。
もう少し頑張るつもりです。
9年経って、少しずつあの頃の記憶が薄くなって、生活も適当、お座なりになってしまっています。
この記事を書いて、もう1度しっかり考えたいなぁと、思っています。
生きる意味
生きる意味は、いまだに分かりません。
本当は意味など無いのかもしれません。
生きているのか、生かされているのかも分かりません。
もし、あの時私の時間が終ってしまったとしても、旦那さんは、子供達は、何とか生きて行くでしょう。
でも、私は生きました。
生かされました。
そこに、意味など無いのかもしれません。
けれど、先の記事にも書きましたが、生きているなら、生かされているなら、目の前にある事を粛々と、こなして行くだけなんでしょう。
人はひとりでは生きていけません。
家族や、社会や、友達や、知人や、自分で気付いていない いろんな人に関わって、お世話になって生きています。
すべてのものに感謝なんて出来るほど 人間が出来ていないので、取り敢えず身近なひとに感謝して、なるべく有り難うと、言葉に出して、
日々粛々と生きていけたら、幸せですね。
まあ、取り敢えず となりでイビキをかいて寝ている旦那さんに 心の中で感謝して 私もそろそろ寝ましょうか。
長い文章を読んで下さり ありがとうございます。
皆様の上に たくさんの幸せがあります様に
光川 てる